落語 木戸をくぐれば
第62回「三木助に間に合った」
三代目の桂 三木助は戦後に活躍した落語家では比較的早めに亡くなった人だ。五十代後半での他界は残念だったが、その晩年の十年強は思う存分の評価を得たので、芸人としては生涯を全うしたと言い得るのではないか。
亡くなったのは一九六一(昭和三十六)年の一月十六日。私が情報を知ったのはその夜七時台のNHKのテレビニュースだった。多くの落語家が民間放送局と専属契約を交わす中、三木助と師の六代目春風亭柳橋はラジオの人気番組「とんち教室」のレギュラー解答者だったためか、落語自体の放送もNHKに操を立てていたので、訃報はしっかりとした枠をとって報じられた。
たしか、往年の喜劇の王者、古川ロッパが同じ日に他界したと思うが、時間差があったかどうか、その時間帯のニュースで同時に報じられた記憶がない。
私はそのとき十八歳だったが、三木助の死にはショックを覚えた。数年にわたってかなり聴いてきた落語家だったからだ。
むろん、十代なりの聴き方にしかすぎまいが、十代なりの三木助像を抱いていたとは言えるだろう。その当時の三木助ブームの影響を強く受けていたこともたしかだ。後年録音を聴き直して少しイメージの修正をしたこともまた事実だった。
『御神酒徳利』は三越落語会と人形町末広での独演会で一度ずつ、合わせて二度聴いた覚えがある。手慣れた演目なので安定した印象が残っている。
三木助の勉強会・砧会は日本橋の、たしか梅むらという食味処で定期的に開催されていたが、十代の身には敷居が高く、一度も行ったことがない。だが『火事息子』は一九五八(昭和三十三)年三月二十八日の東横落語会で聴いた。
『芝浜』『化物使い』『蛇含草』『宿屋の仇討』などなど三木助のほとんどの演目を実演で聴けたのは、私にとって大きな幸福だった。
亡くなったのは一九六一(昭和三十六)年の一月十六日。私が情報を知ったのはその夜七時台のNHKのテレビニュースだった。多くの落語家が民間放送局と専属契約を交わす中、三木助と師の六代目春風亭柳橋はラジオの人気番組「とんち教室」のレギュラー解答者だったためか、落語自体の放送もNHKに操を立てていたので、訃報はしっかりとした枠をとって報じられた。
たしか、往年の喜劇の王者、古川ロッパが同じ日に他界したと思うが、時間差があったかどうか、その時間帯のニュースで同時に報じられた記憶がない。
私はそのとき十八歳だったが、三木助の死にはショックを覚えた。数年にわたってかなり聴いてきた落語家だったからだ。
むろん、十代なりの聴き方にしかすぎまいが、十代なりの三木助像を抱いていたとは言えるだろう。その当時の三木助ブームの影響を強く受けていたこともたしかだ。後年録音を聴き直して少しイメージの修正をしたこともまた事実だった。
『御神酒徳利』は三越落語会と人形町末広での独演会で一度ずつ、合わせて二度聴いた覚えがある。手慣れた演目なので安定した印象が残っている。
三木助の勉強会・砧会は日本橋の、たしか梅むらという食味処で定期的に開催されていたが、十代の身には敷居が高く、一度も行ったことがない。だが『火事息子』は一九五八(昭和三十三)年三月二十八日の東横落語会で聴いた。
『芝浜』『化物使い』『蛇含草』『宿屋の仇討』などなど三木助のほとんどの演目を実演で聴けたのは、私にとって大きな幸福だった。