落語 木戸をくぐれば

第60回「もう一人の黒門町」
 五代目古今亭今輔を「黒門町の師匠」だといったら、学校のテスト次元では×点を付けられる。



 そんなことがテストに出題される学校があるはずもないが、とかく世の中が貼り付けるレッテルとはそういうものだ。



「黒門町の師匠」は八代目桂文楽に決まっているじゃないか、と一蹴されて事は終わる。東京都台東区の南西部にあった「黒門町」の町名が消えたのも、都電とともにその停留所名が消えたのも、桂文楽がまだ健在のころだった。いまはあのあたりを上野一丁目という。



 戦後の古今亭今輔は間違いなくその黒門町の住人だった。いわゆる中央通りに沿って、一筋湯島側の横町の角に今輔の家はあった。その角を曲がって路地をさらに湯島側へ入って、次の横町に抜ける一戸手前に文楽の家があった。つまり戦後の文楽と今輔は数軒をへだてて同じ路地に斜め向かい合う同町内の住人だったのだ。



 文楽の家は新築で白木の肌も鮮やかに磨かれていたが今輔の家は戦前に建てられた二階家で渋く落ち着いた風情を漂わせていた。



 役者やはなし家を地名で呼ぶのは江戸以来の習わしだ。最近でこそ芸能人もマンション住まいが主流になってその慣習が廃れつつあるが、八代目林家正蔵(彦六)を「稲荷町」、五代目柳家小さんを「目白」、三代目古今亭志ん朝を「矢来町」と呼んだのは、そう遠い昔の話ではない。



 今輔はなぜ「黒門町」と呼ばれなかったのか。文楽にお株を奪われてしまったのだろうか。



 自宅は渋い色合いだったが、進取の気性に富み、その当時の同世代の落語家の中でいちばん「君」、「僕」のせりふがしっくり噺の中に納まる人だった今輔は、「○○の師匠」呼ばわりが似合わない落語家だったのだ。だが古典の素養も筋金入りで、筋を通す一徹な気性には古武士めいたイメージもあった。武骨派はニックネームに馴染まない芸人なのだろう。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。