落語 木戸をくぐれば
第58回「二人の志ん生」
五代目古今亭志ん生が病に倒れたのは一九六一(昭和三十六)年十二月のことだった。そのとき満七十一歳。やがて半身が不自由なまま高座に復帰したが、舌捌きに難が残った。そんな状態で七十八歳ぐらいまで高座をつとめ、八十三歳で他界した。
歩行は困難なので高座への出入りにはいったん幕を引く。いわゆる〝板付き〟の出入り。幕があいたとき、すでに志ん生は座布団の上に坐ってお辞儀をしている。体が不自由だからそれほど深いお辞儀ではなかったが、もともと志ん生は深く頭を下げる人ではなかった。
志ん生がそんな状態になった頃、東京の高座にもう一人、板付きの大看板が健在だった。その人・三代目三遊亭金馬の不自由は列車事故の後遺症で、すでに十年越しのことだった。金馬は正座がしにくかったため、膝前に講談用の釈台を置いていた。
病前の志ん生は必ずしも飄々とした芸風ではなく、気が入っているときは奔放で勢いがあり、伝法肌にさえ思われたものだ。少なからず驕慢の気風もあって出来にはムラがあった。病後はそうしたくても出来なくて、本人としてはもどかしかったろう。
病後は舌のハンディを補うために全力をあげてしゃべる。そのためか病前よりは結果のムラが激減した。志ん生が日々真摯に演じるようになったのは、病後のことだったかもしれない。
本人は懸命にやっていても病める舌の切先きっさきは鈍りがちだ。そこに聴衆は飄々の境地を発見した。戦後に志ん生は売れた――と、とかく過去というものは世人の意識の中で短く圧縮され、やがてそれが歴史的事実となる。が、志ん生の人気は病前こそがピークで、病後には沈静したが、深く聴衆の心底を浸していった――と私は見る。
病前病後の二人の志ん生は私に、巧さとは、話術とは、芸とは、そして人気とは、人心とは何なのかを教えてくれた。むろん二人の志ん生は一見の別人であって、紛れもない同一人物なのだけれど――。
歩行は困難なので高座への出入りにはいったん幕を引く。いわゆる〝板付き〟の出入り。幕があいたとき、すでに志ん生は座布団の上に坐ってお辞儀をしている。体が不自由だからそれほど深いお辞儀ではなかったが、もともと志ん生は深く頭を下げる人ではなかった。
志ん生がそんな状態になった頃、東京の高座にもう一人、板付きの大看板が健在だった。その人・三代目三遊亭金馬の不自由は列車事故の後遺症で、すでに十年越しのことだった。金馬は正座がしにくかったため、膝前に講談用の釈台を置いていた。
病前の志ん生は必ずしも飄々とした芸風ではなく、気が入っているときは奔放で勢いがあり、伝法肌にさえ思われたものだ。少なからず驕慢の気風もあって出来にはムラがあった。病後はそうしたくても出来なくて、本人としてはもどかしかったろう。
病後は舌のハンディを補うために全力をあげてしゃべる。そのためか病前よりは結果のムラが激減した。志ん生が日々真摯に演じるようになったのは、病後のことだったかもしれない。
本人は懸命にやっていても病める舌の切先きっさきは鈍りがちだ。そこに聴衆は飄々の境地を発見した。戦後に志ん生は売れた――と、とかく過去というものは世人の意識の中で短く圧縮され、やがてそれが歴史的事実となる。が、志ん生の人気は病前こそがピークで、病後には沈静したが、深く聴衆の心底を浸していった――と私は見る。
病前病後の二人の志ん生は私に、巧さとは、話術とは、芸とは、そして人気とは、人心とは何なのかを教えてくれた。むろん二人の志ん生は一見の別人であって、紛れもない同一人物なのだけれど――。