落語 木戸をくぐれば

第57回「大きな顔」
 戦時体制下の強制疎開と度重なる空襲は東京の街を破壊した。根岸あたりには多く寄席芸人が住まい、坂を上がった田端の台地には文士・作家の家が散見された――。そんな土地柄という名の都会の秩序はほとんど戻ることがなかった。



 私は神田に生まれ育った。記憶はすでに戦後のみだが、東京オリンピックの頃までは昔の土地柄、秩序のなごりは辛うじてあって、著名な芸人の住居を見かけることも、また街を歩き、あるいは都電を乗り降りする芸人の姿を目にすることも珍しくはなかった。それはことさら興奮して他人に話すほどの事ではなく、それが都会生活の一コマだとみんな思っていた。



 その後の東京は一段と膨張し、発展した。タレントの歩く姿は六本木などのそれらしき地域に行かないと見かけない。一部エリアを除いて東京全体は巨大な地方都市のようになった。



 日本橋の三越本店には昭和の初期から三越劇場がある。ここの三越落語会へよく通ったのは中学生時代の一九五六年から三年間ほどだ。歩いても行ける距離のホール落語会。休憩時間に熱帯魚のエサを買いにペット売り場へ行ったら、さっき高座をおえた三代目三遊亭金馬がいて何匹か魚を買っている。釣りの名人金馬は飼育にも凝っていたのだ。



「器量のいいのおくれ」と店員に冗談まじりの注文をする。その調子は十八番『居酒屋』の酔漢そのまま。袖が触れるほど至近にいた私は内心大いにウケたが、私より一回りも年長の男性店員には、そのイキがまるでわからない様子で殊勝に「ハイ」と答えていた。魚の器量に良し悪しがあるのかしら?



 金馬は中学生の私より背が低い。その当時流行の八頭身美人とは縁遠い五、六頭身の顔の大きさ。芸も大きかったが、その顔の貫禄が高座ぶりを一段と大きくしていたのだ。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。