落語 木戸をくぐれば
第53回「熱血漢・今輔」
昭和二、三十年代、ラジオを通じて亜流ながら滅法陽気にしゃべって人気があったベテランの落語家といえば、五代目古今亭今輔と二代目三遊亭円歌だった。二人とも訛り口調だったためか、名人志向に走ることなく、聴き手へのサービスに徹していた。世相風俗にマッチした新作を精力的にこなしていたのも人気の理由だった。
今輔は上州訛りがあるために新作で生きる道を歩んだ、といわれている。そのかわり、主人公が上州者の『塩原多助』(三遊亭圓朝作)は私こそ本場物です――、となかば冗談のように話していたそうだが、他にも『ねぎまの殿様』、『馬の田楽』、『もう半分』、『死神』など、ちょっと特異な古典落語は手放さなかった。
新旧どちらの演目にせよ、生一本で磊落らいらくで、頑固そうだが陽気で明るい語り口は親しまれた。町内で人気者の名物おじいちゃんがきょうもラジオでおもしろい話を聞かせてくれる。そんな気分の今輔落語はやがて〝お婆さん落語〟のヒットにつながったが、それは無理のない、自然ななりゆきで、晩年はペーソスと情味さえ感じさせた。
今輔は明治の人で、出発点では名人といわれた初代三遊亭圓右の門に属していた。戦後の落語界ではすでに長老格だったが、その新作には現代的な言語センスが行き渡っていて、「そうするってエとお前さん」といった古典の口調を一切排除していた。当たり前のことのようだが、古典の語り口のままでサラリーマンを演じる〝新作派〟が多い中で、今輔の徹底ぶりは目立っていた。
それはことばの表面だけのことではない。ある新作のマクラに「第五列」ということばを入れたので驚いたことがある。第五列とは、一九三七年に終結したスペイン内戦で話題になった、〝敵の陣中に潜む味方〟のことだ。大正デモクラシーの時代に落語界の封建制打破を叫んで落語革新派の旗揚げをしたこともあった今輔は、若い頃から骨の髄まで新しい方向を示す熱血漢だったようだ。
今輔は上州訛りがあるために新作で生きる道を歩んだ、といわれている。そのかわり、主人公が上州者の『塩原多助』(三遊亭圓朝作)は私こそ本場物です――、となかば冗談のように話していたそうだが、他にも『ねぎまの殿様』、『馬の田楽』、『もう半分』、『死神』など、ちょっと特異な古典落語は手放さなかった。
新旧どちらの演目にせよ、生一本で磊落らいらくで、頑固そうだが陽気で明るい語り口は親しまれた。町内で人気者の名物おじいちゃんがきょうもラジオでおもしろい話を聞かせてくれる。そんな気分の今輔落語はやがて〝お婆さん落語〟のヒットにつながったが、それは無理のない、自然ななりゆきで、晩年はペーソスと情味さえ感じさせた。
今輔は明治の人で、出発点では名人といわれた初代三遊亭圓右の門に属していた。戦後の落語界ではすでに長老格だったが、その新作には現代的な言語センスが行き渡っていて、「そうするってエとお前さん」といった古典の口調を一切排除していた。当たり前のことのようだが、古典の語り口のままでサラリーマンを演じる〝新作派〟が多い中で、今輔の徹底ぶりは目立っていた。
それはことばの表面だけのことではない。ある新作のマクラに「第五列」ということばを入れたので驚いたことがある。第五列とは、一九三七年に終結したスペイン内戦で話題になった、〝敵の陣中に潜む味方〟のことだ。大正デモクラシーの時代に落語界の封建制打破を叫んで落語革新派の旗揚げをしたこともあった今輔は、若い頃から骨の髄まで新しい方向を示す熱血漢だったようだ。