落語 木戸をくぐれば

第49回「真犯人は?」
 五代目古今亭志ん生と六代目三遊亭圓生は空襲で都市機能がマヒした東京をあとにして旧・満州へ渡ったがまもなく終戦になり、二年あまり大連で足どめをされた。



 中国は国民党と共産党との内戦模様となり、加えてソ連の大群が進駐してきた。末端のソ連兵は日本人住宅を標的に略奪行為もしばしばの無政府状態。それでも日本人社会が崩壊したわけではなかった。落語をせめてもの慰みにする。ほどほどに仕事はあった。謝礼は現物支給のこともある。圓生は高級スコッチウイスキーをもらった。



 これは日本へ帰ってから栓を開けよう。圓生は恭々しく箱入りのボトルを神棚に供え、朝夕手を合わせて帰国が一日も早く実現するように祈っていた。



 圓生の留守、志ん生は神棚の供物が気になって仕方がない。一口ぐらいいいだろ。そっと開けてチビリ。うまい、もう一口。そんなことが重なってボトルはカラッポになった。まるで『猫の災難』、いや志ん生版の『犬の災難』そのものだ。当座のごまかしにボトルを水で満たした。



 また圓生の留守、ソ連兵が押し込んで来た。志ん生に銃を突きつけて室内を物色したがめぼしい品はなく、神棚のウイスキーを奪って去った。帰ってきた圓生がくやしがったことは言うまでもない。噺の猫(犬)は濡れ衣を着せられた。ソ連兵は紛れもない真犯人だが、志ん生はひそかに、水を飲まされた兵士の報復を怖れていた――。



 帰国後、それぞれに落語界の雄となった二人だが、志ん生に遅れること六年で圓生も他界した。その圓生を偲ぶ集いで志ん生の長男・十代目金原亭馬生が披露したこのエピソードは、二人の性格、人柄を端的に物語っていておもしろい。



 ウチのおやじさん(志ん生)も言わなかったから、圓生師匠は真相を知らずじまいだったでしょうよ――。馬生は淡々と語っていた。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。