落語 木戸をくぐれば
第48回「金馬と時局落語」
四代目三遊亭金馬が二〇〇六年春に出版した自伝「金馬のいななき」(朝日新聞社)には戦時中の楽屋の様子や初期のテレビ番組の裏側が書かれていて興味深いが、師・三代目金馬についての記述もむろんのこと豊富にあっておもしろい。
戦前から東宝名人会の専属になって寄席出演はほとんどしなくなっていた三代目金馬は人気があって、いわゆる〝お座敷〟の仕事も多く、放送――といっても戦後数年たつまではNHKのラジオ一局だけだが、ここでもトップの出演回数を誇っていた。
そのためか、落語界に対して超然と暮らしていたばかりでなく、相次ぐ空襲で東京が荒廃していく最中にも悠々と日々を送っていたようだ。大体、その頃の落語家は寄席出演が生命線だったから、家を一、二度空襲で焼かれても東京にしがみついて疎開をしたがらなかったものだが、金馬は食糧難の最中にも結構栄養をとっていたフシがある。
それでも終戦間近の頃、食卓の足しにと四代目が近くの碑文谷公園の池へエビを釣りに行ったエピソードなどは、国民が未曾有の苦難を味わった時代を如実に記している。
古典落語の巨匠にして大衆派とされている三代目三遊亭金馬だが、その大衆性の一端には新作落語――というより時局落語めいた一群の噺がある。そういう側面をもったことが、良くも悪くも同時代の名人派と一線を画すポジションに金馬を位置づけている。ラジオ録音が残る噺では『歳暮(中元)廻し』、『防空演習』、『野球チーム』などが代表作だ。
この手の風俗ネタは時世が変わると古臭く、またそらぞらしく聴こえがちなものだ。歳暮や中元の品を他へ回す風習はなくなった。戦時色の強い『防空演習』はしかし、戦争・戦災体験が今なお語り継がれる現代に一定の存在を保つのではないか。むろん、その時代の生き証人・金馬の世代が語ってこその噺ではあるが。
戦前から東宝名人会の専属になって寄席出演はほとんどしなくなっていた三代目金馬は人気があって、いわゆる〝お座敷〟の仕事も多く、放送――といっても戦後数年たつまではNHKのラジオ一局だけだが、ここでもトップの出演回数を誇っていた。
そのためか、落語界に対して超然と暮らしていたばかりでなく、相次ぐ空襲で東京が荒廃していく最中にも悠々と日々を送っていたようだ。大体、その頃の落語家は寄席出演が生命線だったから、家を一、二度空襲で焼かれても東京にしがみついて疎開をしたがらなかったものだが、金馬は食糧難の最中にも結構栄養をとっていたフシがある。
それでも終戦間近の頃、食卓の足しにと四代目が近くの碑文谷公園の池へエビを釣りに行ったエピソードなどは、国民が未曾有の苦難を味わった時代を如実に記している。
古典落語の巨匠にして大衆派とされている三代目三遊亭金馬だが、その大衆性の一端には新作落語――というより時局落語めいた一群の噺がある。そういう側面をもったことが、良くも悪くも同時代の名人派と一線を画すポジションに金馬を位置づけている。ラジオ録音が残る噺では『歳暮(中元)廻し』、『防空演習』、『野球チーム』などが代表作だ。
この手の風俗ネタは時世が変わると古臭く、またそらぞらしく聴こえがちなものだ。歳暮や中元の品を他へ回す風習はなくなった。戦時色の強い『防空演習』はしかし、戦争・戦災体験が今なお語り継がれる現代に一定の存在を保つのではないか。むろん、その時代の生き証人・金馬の世代が語ってこその噺ではあるが。