落語 木戸をくぐれば
第47回「堂々の初代・桂歌丸」
桂歌丸といえば、現役の落語家中もっとも知名度が高いグループに入る。だが、この名前は決して古い由緒のあるものではない。この人をもって初代とする、と後世の史家を待つまでもなく記される存在だ。
江戸時代の末に都川みやこがわ歌丸という音曲師がいたことは知られていて、四代目桂文治の兄だという。昔の音曲師はいまの俗曲色物の芸人とは少しちがっていて、噺の中に唄が入る音曲噺というジャンルを主に演じる落語家の一種と考えていい。その歌丸以外に「歌丸」は文献の類に記されていないようだ。
門下に「歌」の字を多くあてる三遊亭圓歌の場合も、圓歌自体がまだ三代目という若い名跡で、今日までに「三遊亭歌丸」を生んだ実績がない。今後「歌丸」は桂一門の名跡と相場が決まった。
桂歌丸は一九三六(昭和十一)年に横浜で生まれ、五一年に五代目古今亭今輔に入門して今児となり、五九年に今輔門下の桂米丸の門下に移籍して米坊となり、六四年に歌丸に改め、六八年に真打に昇進している。
二人目の師匠米丸・にあやかっての歌丸・ということだ。伝統も由緒もないが、「歌」と「丸」の二文字の組み合わせに芸人らしい艶が感じられる。
「米丸」は相当な実績のある名前で、昭和平成の米丸、つまり歌丸の師の米丸は四代目だ。その前の三代目米丸は四代目の師で歌丸にとっては最初の師匠だった五代目古今亭今輔。その今輔が昭和初期に身を預けた初代桂小文治の前名が二代目の米丸だった。この小文治は元来上方の人だから「米丸」は大阪から東京に移籍したわけだ。初代米丸は大阪の桂文団治の前名。
歌丸は早くから「笑点」で売り出し、新作落語から古典に転向した。三遊亭圓朝作の続き物人情噺の積極的な口演を評価されて芸術選奨文部科学大臣賞を受け、落語芸術協会の会長を務める桂歌丸は堂々の初代だ。面倒な過去帳の折紙が付くよりも、芸人としては本懐だろう。
江戸時代の末に都川みやこがわ歌丸という音曲師がいたことは知られていて、四代目桂文治の兄だという。昔の音曲師はいまの俗曲色物の芸人とは少しちがっていて、噺の中に唄が入る音曲噺というジャンルを主に演じる落語家の一種と考えていい。その歌丸以外に「歌丸」は文献の類に記されていないようだ。
門下に「歌」の字を多くあてる三遊亭圓歌の場合も、圓歌自体がまだ三代目という若い名跡で、今日までに「三遊亭歌丸」を生んだ実績がない。今後「歌丸」は桂一門の名跡と相場が決まった。
桂歌丸は一九三六(昭和十一)年に横浜で生まれ、五一年に五代目古今亭今輔に入門して今児となり、五九年に今輔門下の桂米丸の門下に移籍して米坊となり、六四年に歌丸に改め、六八年に真打に昇進している。
二人目の師匠米丸・にあやかっての歌丸・ということだ。伝統も由緒もないが、「歌」と「丸」の二文字の組み合わせに芸人らしい艶が感じられる。
「米丸」は相当な実績のある名前で、昭和平成の米丸、つまり歌丸の師の米丸は四代目だ。その前の三代目米丸は四代目の師で歌丸にとっては最初の師匠だった五代目古今亭今輔。その今輔が昭和初期に身を預けた初代桂小文治の前名が二代目の米丸だった。この小文治は元来上方の人だから「米丸」は大阪から東京に移籍したわけだ。初代米丸は大阪の桂文団治の前名。
歌丸は早くから「笑点」で売り出し、新作落語から古典に転向した。三遊亭圓朝作の続き物人情噺の積極的な口演を評価されて芸術選奨文部科学大臣賞を受け、落語芸術協会の会長を務める桂歌丸は堂々の初代だ。面倒な過去帳の折紙が付くよりも、芸人としては本懐だろう。