落語 木戸をくぐれば

第46回「圓生の唄」
 六代目三遊亭圓生といえば芸域の広さに定評がある。同時代に活躍した五代目古今亭志ん生、八代目林家正蔵(彦六)も広かったが、圓生はその二人がやらない、唄の入る音曲噺系の演目もこなしたので、一段とその印象は強かった。志ん生は音曲噺そのものはやらなかったが、噺の中でうたうことはあって、その唄にも独特の味わいはあったが、圓生のそれはいわば道場で仕込まれた本格に近い邦楽歌唱だった。



 圓生が後輩に楽屋で唄の指導をしたことがあったそうだ。『小言幸兵衛』の想像の心中場で舞台奥に常磐津(ときわず)連中が居並び、浄瑠璃を語る、というところで常磐津をほんの一節、口にする。



 圓生はその後輩に、「とても上手だったが、あれでは常磐津というより清元のようになる。清元なら清元でもいいが、常磐津と言うからには常磐津らしく語るべきです」と自分でやってみせたそうだ。



 同じ浄瑠璃の文句を清元ならこう、常磐津ならこうと演じ分けたのだ。脇で聴く者にも明瞭に二種類の音曲の語り分け――唄い分けがわかる。ワァ、すごい師匠だなと思いましたよと、そのとき楽屋で働いていた前座で、いま中堅級の落語家は証言している。



『三十石』の舟唄は五代目圓生ゆずりのお家芸だった。先代とはちがうやり方をしようと、圓生は三つ目の舟唄「奈良の大仏…」をいつも一調子高く唄っていた。何人かの船頭が漕ぐ舟だから、声の高い船頭もいたという設定で、それが噺のクライマックスにもなっていた。最晩年には少し辛そうだったが、この演出は崩さなかった。



『包丁』では小唄を唄いつつ女師匠ににじり寄る。酔態と、故意の色仕掛けと、小唄と、そして相手の拒絶反応とを同時にこなす至難な演技のしどころだが、ここはほとんど圓生自身の創造だった。ところが初演の頃、ある小唄の師匠に「唄が巧すぎるわよ」と厳しく指摘された。唄のところは酔っていないわ――。



 なるほど、巧く見えては酒の酔いがウソになる。巧いがすべてではない、と圓生はつくづく反省をした。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。