落語 木戸をくぐれば

第45回「志ん生が増やした名前」
 長く不遇だったこともあって、五代目古今亭志ん生が十数回の改・襲名をしたことはよく知られている。そのうちで襲名と呼べるほどのものは、昭和九(一九三四)年九月の七代目金原亭馬生と昭和十四(一九三九)年三月の五代目古今亭志ん生――つまり最後の二回だけで、それまでは改名、いや変名だと言いたいくらいのものがほとんど。



 もとの名前に戻ったり、戻ったものの亭号がちがっていたり、そんな変則パターンもあるから、改名回数の算定も一筋縄ではいかない。夜逃げ同然の改名あり、身を寄せた師匠をしくじったり、講談に転業したり、理由はさまざまだが、勝手気儘と見られがちなそんな遍歴の中にも、落語を捨てない一貫性は感じとれる。



 晩年に超大物になれば、不名誉なはずの無闇な名義変更にも一種の値打ちが生じる。落語の世界で爪弾きにあっていた時期の名前にも、あの志ん生の「お手」が付いたというバリューが生まれる。



 志ん生も自分のはるか彼方の名前を弟子に与えた。それはいいが、亭号を全部、古今亭にしてしまったために少々の乱れも生じた。十幾つかの名前には三遊亭、柳家のものが複数ある。志ん生は三遊亭圓菊だったのに弟子は古今亭圓菊にした。志ん生は柳家甚語楼だったのに弟子を古今亭甚語楼にした。平成十八(二〇〇六)年春にようやく甚語楼の名前が柳家に戻るという一幕もあった。なにしろ志ん生自身が「古今亭馬主」を名乗ったこともあるくらいだから、どんなことも朝飯前なのだ。



 それでも、志ん生のかつての〝暴挙〟が落語家の名前を増やしたという結果的功績は大きい。志ん生は昭和五(一九三〇)年に「隅田川馬石(すみだがわ・ばせき)という江戸期の古い名前を名乗ったが、平成十九(二〇〇七)年春に曾孫弟子・五街道佐助がその名の四代目で真打に昇進したのも、志ん生という先例の洗礼があったればこそだ。志ん生が大成したので名前に箔が付いたのだ。



 ただし、志ん生が馬石だった期間は一ヶ月あまりだという。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。