落語 木戸をくぐれば

第44回「小さん師弟の絆」
 言うまでもなく、五代目柳家小さんは四代目小さんの愛弟子だった。師弟の年齢は干支で二回り以上ちがう。五代目が八十路なかばの長寿を保ったのは記憶に新しいが、四代目は終戦の翌々年に満五十九歳で急逝した。



 五代目が小三治(九代目)で真打になった直後のこと、四代目は上野・鈴本の高座をおりてすぐに倒れ、還らぬ人となった。遺骸を稲荷町の自宅へ送る人力車の傍らを、のちの五代目――新真打の小三治が号泣しながら付き添って歩いて行ったという話が伝わっている。



 人力車とは古風に過ぎるようだが、敗戦直後でろくな自動車も手配できないご時世だったし、ガソリンで動く乗物よりは人間の曳く俥くるまのほうが無言の帰宅にはふさわしい。いや人力車ではなく大八車だった、とも言われている。



 五代目小さんが師を語るときに必ずといっていいほど出た話は、師匠は無口な人で、自分も無口だから、内弟子として朝から晩まで一つ屋根の下に居ながら、ひとこともことばを交わさないことがよくあった――ということ。それでも心は通い合っていたのだろう。



 若手のころ五代目は売れっ子の三代目三遊亭金馬のところへ稽古して貰いに行った。師匠・四代目からの「よろしく」という手紙が金馬に届いていたのだが、師と対照的な性格の金馬は、黙っておとなしく控えている若者に目もくれない。若い五代目は何一つ教わることなく引き上げた。



 それを聞いた四代目小さんは、それでいいと言ったそうだ。売れっ子・金馬の一日を目の当たりにし、その、悪くいえば面つらの皮の厚さを学ぶだけでも甲斐があると言われたそうだ。四代目三遊亭金馬の著書によれば、三代目はどうやら、忙しかったばかりでなく、教えるのが苦手だったらしい。



 四代目小さんは愛弟子の骨太な素質を早くから見抜き、しかし地味に終わることがないように願って、あえて金馬の家へ行かせたのだと思われる。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。