落語 木戸をくぐれば
第42回「田圃の稽古」
若き日の、まだ駆け出しのころの五代目古今亭志ん生―初名・三遊亭朝太が、師匠の二代目三遊亭小圓朝に従って旅仕事に出たのは明治四十五年の春のことだった。当時、三遊派の頭取だった小圓朝が、芸人連と寄席組合とのトラブルの責任をとって都落ちの旅に出たのだった。
夏の終わりに明治天皇が崩御して元号が大正に改まるころ、ほとぼりのさめた小圓朝は東京に復帰したが、朝太は師匠に暇を乞い、いわばフリーランサーの一匹狼として旅から旅を巡る道を選んだ。東京で下積みの生活をやり直すよりは地方で花を咲かせ、人気をとって東京へ凱旋したい。朝太はまだ二十代の初め、そのころはそんな野心がかなう可能性のある時代だった。これが、以後四半世紀にわたる、志ん生の放蕩無頼と貧窮の人生の第一歩だった。
いつのころかはっきりしないが、おそらく大正元年の秋なのだろう。朝太は山梨県甲府の在の、一軒のしがない寄席に住み込んだ。ここで演じ、稼いで寝泊まりをする。宿屋に泊まる余裕はなかった。
ここに、もと落語家の爺さんがいた。四代目三升亭小勝の弟子で小常といい、前座のまま廃業したも同然にここに流れつき、夜はこの寄席の下働き一切をしている。昼は昼で田守たもりの役をし、鳴子の紐を引いて稲にむらがる雀を退散させる仕事をしていた。
ある晩、『甚五郎の大黒』を大得意で演じた朝太は、小常爺さんから辛辣な批評をされた。「左甚五郎は変わり者だけど、与太郎じゃありませんぜ」。打ちのめされた朝太は昼間、田の中の小常の小屋へ通っていろいろな落語を教わった。小常は鳴子の紐を引き引き、稽古をつけてくれたという。
こんな得難い体験が志ん生の持ちネタを豊富にした。珍品の財産も数多い。落語家の協会などなかった昔は腰掛け芸人や埋もれ芸人がずいぶんいたようだ。朝太は、人生だけは小常に学ばず天下を取ったが、それはまだずっと後のことだった。
夏の終わりに明治天皇が崩御して元号が大正に改まるころ、ほとぼりのさめた小圓朝は東京に復帰したが、朝太は師匠に暇を乞い、いわばフリーランサーの一匹狼として旅から旅を巡る道を選んだ。東京で下積みの生活をやり直すよりは地方で花を咲かせ、人気をとって東京へ凱旋したい。朝太はまだ二十代の初め、そのころはそんな野心がかなう可能性のある時代だった。これが、以後四半世紀にわたる、志ん生の放蕩無頼と貧窮の人生の第一歩だった。
いつのころかはっきりしないが、おそらく大正元年の秋なのだろう。朝太は山梨県甲府の在の、一軒のしがない寄席に住み込んだ。ここで演じ、稼いで寝泊まりをする。宿屋に泊まる余裕はなかった。
ここに、もと落語家の爺さんがいた。四代目三升亭小勝の弟子で小常といい、前座のまま廃業したも同然にここに流れつき、夜はこの寄席の下働き一切をしている。昼は昼で田守たもりの役をし、鳴子の紐を引いて稲にむらがる雀を退散させる仕事をしていた。
ある晩、『甚五郎の大黒』を大得意で演じた朝太は、小常爺さんから辛辣な批評をされた。「左甚五郎は変わり者だけど、与太郎じゃありませんぜ」。打ちのめされた朝太は昼間、田の中の小常の小屋へ通っていろいろな落語を教わった。小常は鳴子の紐を引き引き、稽古をつけてくれたという。
こんな得難い体験が志ん生の持ちネタを豊富にした。珍品の財産も数多い。落語家の協会などなかった昔は腰掛け芸人や埋もれ芸人がずいぶんいたようだ。朝太は、人生だけは小常に学ばず天下を取ったが、それはまだずっと後のことだった。