落語 木戸をくぐれば

第41回「志ん朝の歩きと蕎麦」
 古今亭志ん朝に晩年はあったのだろうか。



 月並に考えれば、六十三歳で逝った人にそう呼べる時期はなかったということになる。が、振り返ってみると、五十代の末あたりからの四、五年が、志ん朝の束の間の「晩年」であったと思う。



 一九九九年二月末に録音された『火焔太鼓』のマクラでウォーキングに励む日常を語っている。このとき志ん朝は六十一歳目前だった。三十代までは欧州ブランドの超高級スポーツカーを乗り回したり、プロ級のゴルファーだったり、「落語界の若大将」そのものだった志ん朝が、小さなリュックサックを背に黙々と歩く。糖尿対策もあってのことだが、これはやはり、晩年の姿だった。



 父の五代目古今亭志ん生にも歩きの逸話はある。それは健康法でもなんでもない。昭和初期の大不況期、寄席も経営は苦しく、まともなワリ(分合い給システムの出演料)は出せないので、交通費のみ・・・・・・といっても東京市電の回数券切符で支給した。



 売れない、不遇時代の志ん生は市電に乗らずに歩いた。切符を換金してその日の暮らしを立てる。寄席から寄席へとかけもちで歩く間に稽古ができた。歩きながら夢中で稽古をした。稽古に熱中しすぎて危ない目にも遭ったらしい。



 そんな落語貧乏物語も今は昔の物語だが、平成の現在でも電車を一駅か二駅手前で降り、稽古しながら歩いて帰る落語家はいる。マイカーを運転しながら稽古しては危険だし、電車の座席にすわってブツブツつぶやいていると車内に不穏な空気が漂うから、歩け歩けが一番なのだ。



 カメラが好きで好奇心旺盛だった志ん朝がいつも歩き稽古をしていたとは思えないが、たまにはしたことがあったろう。



 歩く途中で蕎麦を食べる―とマクラで言っている。蕎麦は好きだった。楽屋などで、むっつりと黙りこくっているときでも、新規開店の、あるいは穴場の蕎麦屋の話を持ち出すと、すぐに乗ってきたものだ。



 そこいらのグルメ族のように高級蕎麦屋に偏重はしない。「あすこ、雑ぞう用の蕎麦だけど、いいよ」と教わった店が何軒かある。上じょうには上じょうの、並には並の、それぞれ本分がある。それが志ん朝の基本的なものの考え方だった。それは噺への取り組み方にも言えて、いわゆる大ネタと小ネタとでは、包丁捌きから味の付け方まで、きちんと区別して私たちの耳の食卓に供してくれた。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。