落語 木戸をくぐれば

第39回「『小言幸兵衛』に小言」
 落語は、基本的に相対あいたい稽古で伝承される。教える者と教わる者が差し向かいで行なう。三遍稽古が原則というから、教える者は三度演じ、のちに教わった者が教えた人の前で演じて口演の許諾を得る。



 こんな丁寧なやり方をすれば、誰に教えた、誰から教わったという記憶は鮮明に残ることだろうが、反面に「芸は盗め」という裏街道の奨めもある。時代とともに三遍稽古を簡略化して録音や録画の補助を借りるようになった。一切誰にも教わらず、完全に録音録画から盗む落語家もあるようだ。



 古今亭志ん朝は戦後入門世代の中では、もっとも昔気質な稽古にこだわった人だった。芸脈――伝承の筋道も大切にしていて、誰に教わったか不明のまま、みだりに演じている風潮を行儀が悪いと苦りきっていた。



『搗屋(つきや)幸兵衛』と『小言幸兵衛』はひとつの根から分岐した噺だから導入部はほとんど共通である。五代目古今亭志ん生は『搗屋』を、六代目三遊亭圓生は『小言』を演じる〝住み分け〟が長年にわたってついていた。



 志ん朝が父・志ん生ゆずりで『搗屋』をやるのは自然なことだ。志ん朝は『小言』もやりたいと思って圓生に稽古を願ったが、圓生は都合がつかず、弟子の三遊亭圓弥にしっかり伝授してあるので、圓弥から習ってほしいと答えた。志ん朝はそれに従い、『小言』もやるようになった。



 志ん朝を高く評価していた圓生はよく志ん朝の高座を聴いてくれたが、ある日のこと、楽屋で志ん朝を呼んだ。「あたくしの『小言幸兵衛』をやっていましたね。やってもいいが、ひとことあたくしにその旨を言っていただきたかった」、と。



 直に稽古しなかった圓生はいきさつを失念していたのだ。師匠の指示で圓弥さんから――、の回答で思い出した圓生は、志ん朝に詫びた上で、いろいろアドバイスをしてくれたというが、行儀のよい志ん朝が『搗屋』以上に『小言』をよく演じるようになったのは、圓生が亡くなった後のことだった。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。