落語 木戸をくぐれば
第37回「一秒でも早く出たい」
一般的な業種とちがい、好きでもないのに芸の道へ進む人は、まずいまい。好きでなければ、人前でやれる域に達するのはむずかしいのではないか。
それでも、戦後に芸の道へ入った世代は、昔の人たちのように手放しで芸への意欲を口にしたりはしなくなった。
とくに、たった一人で客と向き合いっ放しの落語家には、高座をつとめるのも一苦労――、と言う人が少なくない。芸は好きなんだけど人前でやるのは気が重いよ、と三代目古今亭志ん朝はよく言っていた。人前へ出てやるのが大好きだったら、ずいぶん楽だと思うんだけどね――。
円歌師匠みたいになれたらなあ、と必ず二代目三遊亭円歌の名前を挙げた。円歌は出囃子が始まると舞台の袖でウズウズワクワク、一秒でも早く客前に出たいとばかりに足踏みをしていたという。
それは客席からもうかがえることだった。姿を現したとき、客席をちょっと見やって体全体で会釈をするようにわずかに小腰を屈める。そして満面に笑みをたたえてうれしそうに中央に躍り出るのだった。
生来の吃音癖と抜け切らない越後訛りがあって、それが特異な口跡と語り口を生み出したのだが、底抜けの明るさと過剰なまでのサービスとで、老いても華かな人気者のイメージを保ち続けた。邪道呼ばわりもないではなかったが、あの吹きこぼれる魅力はかつてもいまも、他の人には求められない。
大正の初めに北海道でアマチュア落語家・三遊亭柳喬と名乗って活躍していたのを、のちの五代目古今亭志ん生に見つかり、東京へ出てこいと勧められて初代圓歌の門を叩いたとき、応対に出た兄弟子がのちの三代目三遊亭金馬だったというエピソードは名高い。
芝居ぜりふのある噺も得意で、気持よさそうに七五調をやっていたが、そこはいつも越後訛りが消え失せ、江戸前になっていた。二代目円歌は自分の名前の字を「圓」ではなく「円」だと主張していた。それを尊重して落語界は二代目に限って「円歌」にしているが、弟子の三代目は「圓歌」に戻っている。
それでも、戦後に芸の道へ入った世代は、昔の人たちのように手放しで芸への意欲を口にしたりはしなくなった。
とくに、たった一人で客と向き合いっ放しの落語家には、高座をつとめるのも一苦労――、と言う人が少なくない。芸は好きなんだけど人前でやるのは気が重いよ、と三代目古今亭志ん朝はよく言っていた。人前へ出てやるのが大好きだったら、ずいぶん楽だと思うんだけどね――。
円歌師匠みたいになれたらなあ、と必ず二代目三遊亭円歌の名前を挙げた。円歌は出囃子が始まると舞台の袖でウズウズワクワク、一秒でも早く客前に出たいとばかりに足踏みをしていたという。
それは客席からもうかがえることだった。姿を現したとき、客席をちょっと見やって体全体で会釈をするようにわずかに小腰を屈める。そして満面に笑みをたたえてうれしそうに中央に躍り出るのだった。
生来の吃音癖と抜け切らない越後訛りがあって、それが特異な口跡と語り口を生み出したのだが、底抜けの明るさと過剰なまでのサービスとで、老いても華かな人気者のイメージを保ち続けた。邪道呼ばわりもないではなかったが、あの吹きこぼれる魅力はかつてもいまも、他の人には求められない。
大正の初めに北海道でアマチュア落語家・三遊亭柳喬と名乗って活躍していたのを、のちの五代目古今亭志ん生に見つかり、東京へ出てこいと勧められて初代圓歌の門を叩いたとき、応対に出た兄弟子がのちの三代目三遊亭金馬だったというエピソードは名高い。
芝居ぜりふのある噺も得意で、気持よさそうに七五調をやっていたが、そこはいつも越後訛りが消え失せ、江戸前になっていた。二代目円歌は自分の名前の字を「圓」ではなく「円」だと主張していた。それを尊重して落語界は二代目に限って「円歌」にしているが、弟子の三代目は「圓歌」に戻っている。