落語 木戸をくぐれば
第36回「落語の題名」
古典落語といわれる噺は、和歌の道でいう"詠み人しらず"のまま今日のかたちに成熟したものがほとんどだから、小説のように作者が自分で題名をつけるということがない。識別のための仮の呼称が楽屋内で定着して、題名らしくなったケースがほとんどだ。
もとが仮の呼称だから、しかもいまのようなメディアのなかった時代以来のことなので、呼称が統一されず幾つもある場合もある。いまだに、同じ噺なのに異なる題名が通用しているケースがあるのは、落語三百年の歩みのひとつの例証と見ることができる。
考え抜いて作った題名ではなく、いわば落ち着くところへ落ち着いた結果の題名なので、簡潔で洗練されたものがわりあい多い。いい題名の大事な条件は、噺の本質、あるいは噺全体を照らし出しながら、しかも底を割っていないということだ。題名から結末が容易に想像できるようでは、演者も聴き手も興を削がれるだろう。
たとえば『千早振る』。これはなかなかすぐれた題名だ。噺に一貫した題材である短歌の第一節を題にしていて少しも結末を割っていない。いまはそれほどでもないのだろうが、小倉百人一首の中でも名歌のこの第一節は、落語を知らない人でも知っていた。
『干物箱ひものばこ』は替え玉男の苦し紛れの一語が題になっている。ありそうで?ありっこない名称が、いかにも落語チックではないか。これも全く底を割ってはいない。
『火事息子』はだいぶ説明的な題と言えるが、「火事」と「息子」という、ふつうに考えれば無関係な二つが連結しても、はて、何のことか――と考えさせ、結局わからないままに噺を聴くことになる。とびきりすぐれてはいないが、"おとな"の題名だろう。
落語のCDや参考書が増えてくると、寄席で"題名のない"噺を聴くのが当たり前だった時代とちがい、みんなが題名によって噺の内容に先入観を持つようになるが、たまにそれを外して噺そのものと向き合うのも一興だろう。
もとが仮の呼称だから、しかもいまのようなメディアのなかった時代以来のことなので、呼称が統一されず幾つもある場合もある。いまだに、同じ噺なのに異なる題名が通用しているケースがあるのは、落語三百年の歩みのひとつの例証と見ることができる。
考え抜いて作った題名ではなく、いわば落ち着くところへ落ち着いた結果の題名なので、簡潔で洗練されたものがわりあい多い。いい題名の大事な条件は、噺の本質、あるいは噺全体を照らし出しながら、しかも底を割っていないということだ。題名から結末が容易に想像できるようでは、演者も聴き手も興を削がれるだろう。
たとえば『千早振る』。これはなかなかすぐれた題名だ。噺に一貫した題材である短歌の第一節を題にしていて少しも結末を割っていない。いまはそれほどでもないのだろうが、小倉百人一首の中でも名歌のこの第一節は、落語を知らない人でも知っていた。
『干物箱ひものばこ』は替え玉男の苦し紛れの一語が題になっている。ありそうで?ありっこない名称が、いかにも落語チックではないか。これも全く底を割ってはいない。
『火事息子』はだいぶ説明的な題と言えるが、「火事」と「息子」という、ふつうに考えれば無関係な二つが連結しても、はて、何のことか――と考えさせ、結局わからないままに噺を聴くことになる。とびきりすぐれてはいないが、"おとな"の題名だろう。
落語のCDや参考書が増えてくると、寄席で"題名のない"噺を聴くのが当たり前だった時代とちがい、みんなが題名によって噺の内容に先入観を持つようになるが、たまにそれを外して噺そのものと向き合うのも一興だろう。