落語 木戸をくぐれば

第35回「稽古――噺をあげる」
 落語家の稽古の基本は口承のための相対あいたい稽古。教わる者と教える者とが向かい合って対座し、教わる者は目を皿にし、耳をそば立てて眼前の演技を吸収しなければならない。



「三遍稽古」といわれて、教える者は模範演技を三回やってくれる。三日がかりで、というのが本来なのだろう。三回の間にすっかり覚えなければならない。目と耳を十二分に働かせるわけだから、途中でメモをとることなどは絶対に許されない。自宅へ帰ってから忘れないようにメモにまとめるのまで禁じられはしない。



 万事に忙しい世の中になったから、平成の稽古風景はそれほどゆったりしてはいないようだ。"一遍稽古"であとはテープを活用してもいい、というくらいに"おおらか"になっているらしい。テープ厳禁派の師匠は少数派だろう。



 稽古をしてもらった噺をすっかり習得したら、もう一度その師匠を訪れて、今度は自分が師匠の前で演じる。まアよかろう、高座にかけて、やってもいいよという許可を出すことを"あげる"という。教わった側からは"あげてもらう"だ。独自な工夫を加えるのはそれからあとのことで、その噺を売り物にできるかどうかは、教わった者次第である。



 独自色が強くなってそれが人気を得れば、教えた師匠はお株を奪われることになるが、それは致し方がない。それでも、その師匠と同日に同じ高座に上がるときはその演目を遠慮するのがマナーというものだろう。



 他の伝統芸能とちがい、どんな師匠のところで習ってもよいのが落語の特色で、縦の師弟関係とは別の、横の稽古関係が成り立つ。



 よほど拙劣でなければ、師匠は"あげ"てくれるが、意に染まぬこともあるようだ。ある他門の若手が圓生の許へ"あげてもらい"に行ったところ、聴いた圓生は、「やってもかまいません。でも、あたくしに教わったとは言わないで下さい」と言ったそうだ。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。