落語 木戸をくぐれば

第31回「志ん朝と独演会」
 江戸時代以来、落語は寄席の定席じょうせき興行を場としてきた。何人もの落語家が、色物と呼ばれる他芸の色どりを混じえて次々に登場して落語を話す。



 ひじょうに人気のある落語家が、寄席の余り日、たとえば大の月の三十一日に一人舞台の会を催すことはあって、明治以降に「独演会」と呼ばれるようになった。



 明治三十八(一九〇五)年といえば日露戦争勝利の年だが、落語研究会(第一次)という、落語ばかりを何高座もやる催しが発足した年でもある。落語研究会は何度も中断しながら続き、いまもその名称を相続している落語会がある。この戦前までの落語研究会が太平洋戦争後の「ホール落語会」のヒナ型になった。



 戦後、寄席は一段と軒数を減らした。ホール落語会も七〇年代がピークで、落語界をリードするほどの隆盛期は過ぎている。



 独演会だけが、むしろ増える傾向にあるようだ。「独演会」と名乗らない独演会も多くなってきた。誰々の会とか、ひとり会とか、勉強会とか名称はさまざまだが、主人公の落語家が二、三席を演じるというのだから、独演会にはちがいない。都会に小さなホールが増えてきて若手でも自主公演がしやすくなったこと、客が指名聴きする傾向が強まったことなどが背景にある。



 むかしの落語家は「独演会」を神聖視する、というと大袈裟だが、ひじょうに重要に考えて滅多にやらなかったし、まだやる身分ではない、などと慎重に構えた。



 古今亭志ん朝もなかなか独演会には踏み切らなかった。東京で公式に独演会形式をスタートしたのは三十八歳のときで、三年がかりの説得にようやく応じたものの、会の名称は「志ん朝の会」で独演のドの字もなかった。



 それが録音に残ったわけだが、やるとなったら本格的で、硬軟、軽重の取り合わせを重視して演目を決めた。最後まで「独演会」の看板は出さなかったが、それは自分の自主公演だったからだ。地方公演の主催者が「独演会」と宣伝するのは黙認して何も言わなかった。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。