落語 木戸をくぐれば

第30回「志ん朝とドイツ」
 古今亭志ん朝は江戸前の落語家だったと、みんなが思っている。明るくはずむ、キリリと引き締ったイナセな口調から、そういう印象が生まれたのだろう。



 志ん朝の芸の真価は、そうした「うわべ」だけでは測り知れないが、誰もが第一に感じる印象が、いわゆる江戸前なるものであったことは、否定すべくもない。



 歌舞伎が好きで、蕎麦が好物で、踊りや小唄も上手だった古今亭志ん朝。肩が角張ってなく、ほどほどに丸みを帯びた体型で、誰よりも着物が板についていた志ん朝。そして、とにかく、いい着物をたくさん持っていて、噺それぞれの世界に応じて着こなしてくれた志ん朝。



 日本の伝統が生来身についていたのは、やはり父・五代目志ん生の血を享けていたから――、その先祖の旗本美濃部家の血も争えない――、とたちどころに相場が決まる。



 だが、若いころにアルファロメオを乗り回すタレントでもあった志ん朝は、決して味噌汁・糠味噌族ではなかった。好きな音楽はモダンジャズである。照れ屋でイベント嫌いの志ん朝が珍しく五十人ほどを招いてプライベートなパーティを催したことがあったが、その会場はその当時赤坂の著名なジャズクラブだった「コルドンブルー」で、一流のミュージシャンを揃えていた。



 旅行が大好きで、海外にもよく出かけた志ん朝の第一のごひいきはジャズの本場アメリカかと思ったら、案に相違でクラシックのドイツだった。高校時代にドイツ語を修めたからでもあったろう。日常会話程度はできたようだ。一九七〇年代にまだ日本人観光客があまり行かなかった北ドイツのリューベックあたりまで足を延ばしているのだから、筋金入りのドイツ通だった。



 二〇〇〇年春の会話で私が半年前のドイツ旅行の話をすると、(しばらく行ってないので)「行きたいな」としみじみ言っていた。翌年初夏にその願いは果たされたのだ。だが、その年の秋に志ん朝は亡くなった。ドイツが間に合ってよかったね。私は何も言わない志ん朝の枕辺で呟いた。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。