落語 木戸をくぐれば

第29回「真打と人情噺」
 幕末から明治にかけて、「人情噺」は江戸東京の寄席で重要な位置を占めていた。



 その当時、寄席は十五日ごとに番組が替わるシステムだった。月の前半が上席かみせき、後半が下席しもせき。昭和以降次第に上・中・下の十日興行体制になり、現在落語芸術協会ではさらに五日ごとに顔ぶれを変えている。



 明治の頃にトリをとるはなし家はしばしば、十五日連続で口演する続きものの人情噺を演じた。三遊亭圓朝作の『怪談牡丹灯籠』、『真景累ヶ淵』、『塩原多助一代記』、『後開榛名梅ヶ香(安中草三)』などは、三、四十分口演で十五席分の規模をもつ、興行体制に合わせた人情噺だ。



 名人上手が十五日間、連載小説のように聴き手の興味をひきつければ、通いつめる客も少なくはない。そのころは、人情噺をやれなければトリがとれない、つまり真打になる資格がないと言われていた――という説もある。



 それはいささか誇張で、人情噺をやらないはなし家はその当時もいたし、人気と集客力があれば真打に昇進し、トリをとる資格は十分にあった。



 大正後半から昭和戦前にかけて、寄席業界は試練にさらされる。欧米文化の浸透、映画や軽演劇の台頭、と娯楽の多様化が始まった。生き残りのために、手っ取り早く笑いをとる落語家が寄席業界をリードする時代になった。興行十日制への移行もこのころ。落語界は滑稽噺に活路を求め、人情噺は時代遅れのように思われた。この時期に地位を築き、戦後にも活躍した八代目桂文楽、三代目三遊亭金馬、六代目春風亭柳橋のレパートリーに人情噺はない。



 そのころ低迷していた五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭圓生、八代目林家正蔵(彦六)は人情噺を演じ続け、戦後に高い評価を受けることになった。落語が伝統芸能としての地位を盤石にしたとき、再び「人情噺」に注目が集まったのである。



 文学でも演劇でも笑いと涙は両輪の関係にある。どちらか一方に偏ってはいけない。



 平成の演者にも桂歌丸、五街道雲助など人情噺に力を注ぐ人が絶えない。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。