落語 木戸をくぐれば
第28回「小さん三代と女」
芝居にははっきりした作者があって、書き記された戯曲――台本がある。日本の伝統的な芝居にはいくぶんファジーな要素があって、小説のように一字一句に至るまできっちり決まってはいない。同じ作品でも使う台本によって細部のちがいがある。
一部の新作を除いて落語には固定した台本にあたるものがない。同じ噺でも落語家によって、あるいは落語家の系統によって、やり方や細部のことばがちがってくる。筋運びやサゲ(落ち)さえ別種になることがある。
「古典」といえども笑わせる芸であれば演者の素質、個性が大いにものを言う。その鮮度の高さがポイントになる。だから、ひたすら自分の師匠の忠実な模倣に終始していては聴き手が退屈してしまう。そこが、一般の伝統芸と根本から異なるところだ。
落語では、演者が自分の芸風、自分のキャラクターを生かすために噺のアングルや部分品を変えるのがふつうで、その改造をバランスよく仕上げ、効果をあげられる演者が一流の座につく。それが不得手な模倣者も、やり過ぎのぶちこわし屋も、ともに大成はしないだろう。
五代目柳家小さんは職人、田舎者、武士などが主に活躍する噺を本領としていた。と言って、生活と世相を描く落語から女性を排除するわけにはいかない。女性と無縁の噺の数はそう多くはない。それでも数多い小さんのレパートリーを見渡せば、花魁、芸者、妾など「女」を売りものにした噺は避けられがちのようだ。
これは、少なくとも三、四、五代の、小さん三代にわたる「芸風」であるようだ。女性を極力蔭に回し、女のことばを男が引き取って言うかたちにすれば女性の存在感は表せる。そんな演出が可能な落語の特権を生かして、うわべ女性があまり口をきかない「小さん落語」が根を下ろしたのだ。
とはいえ、五代目小さん演じる長屋のカミさんは天下一品だった。
一部の新作を除いて落語には固定した台本にあたるものがない。同じ噺でも落語家によって、あるいは落語家の系統によって、やり方や細部のことばがちがってくる。筋運びやサゲ(落ち)さえ別種になることがある。
「古典」といえども笑わせる芸であれば演者の素質、個性が大いにものを言う。その鮮度の高さがポイントになる。だから、ひたすら自分の師匠の忠実な模倣に終始していては聴き手が退屈してしまう。そこが、一般の伝統芸と根本から異なるところだ。
落語では、演者が自分の芸風、自分のキャラクターを生かすために噺のアングルや部分品を変えるのがふつうで、その改造をバランスよく仕上げ、効果をあげられる演者が一流の座につく。それが不得手な模倣者も、やり過ぎのぶちこわし屋も、ともに大成はしないだろう。
五代目柳家小さんは職人、田舎者、武士などが主に活躍する噺を本領としていた。と言って、生活と世相を描く落語から女性を排除するわけにはいかない。女性と無縁の噺の数はそう多くはない。それでも数多い小さんのレパートリーを見渡せば、花魁、芸者、妾など「女」を売りものにした噺は避けられがちのようだ。
これは、少なくとも三、四、五代の、小さん三代にわたる「芸風」であるようだ。女性を極力蔭に回し、女のことばを男が引き取って言うかたちにすれば女性の存在感は表せる。そんな演出が可能な落語の特権を生かして、うわべ女性があまり口をきかない「小さん落語」が根を下ろしたのだ。
とはいえ、五代目小さん演じる長屋のカミさんは天下一品だった。