落語 木戸をくぐれば

第27回「歌われた桂文治」
 幕末あるいは明治の初め、江戸東京の子どもたちに歌われた尻取り唄の文句が今に伝わっている。どんな旋律であったか正確にはわからないが、いずれ、数え唄、わらべうた風ではあったろう。口承だから、記録資料によっては細部に微妙なちがいはあるだろう。



「牡丹に唐獅からじし子竹に虎、虎を踏まえて和藤内わとうない、内藤さんは下がり藤、富士見西行さいぎょううしろ向き、剥むき身蛤(はまぐり)ばかはしら、柱は二階の縁の下、下谷上野は山やま鬘かつら、桂文治ははなし家で、でんでん太鼓に笙の笛」



「桂文治ははなし家」と歌われている。牡丹に唐獅子は狩野永徳筆の名作にも残る、日本画でおなじみの題材。竹に虎も日本画のスタンダードな構図。和藤内は『国こく姓爺せんや合戦がっせん』の主人公の豪傑。下がり藤は家紋の一種。富士見西行うしろ向きは東国を旅する西行法師の図柄。剥き身蛤ばか貝(青柳)と柱貝。山鬘は山の裾すそにたなびく暁の雲のこと。



 ここで歌われた桂文治は六代目である。幕末から明治期いっぱい活躍して明治四十四(一九一一)年に六十代の後半で没した。三遊亭圓朝の向こうを張るほどの大物だったという。子どもの世界にも名が伝わるくらいだから、文治代々の中でも傑物だった。



「桂」はもともと上方の亭号だった。文治は桂派の家元といわれる。それが、姻戚関係によって江戸に移り、三、四代の文治は江戸、上方の双方にそれぞれいた。昭和・平成交替期の文治は「十代目桂文治」だが、文治は史上少なくとも十二人実在したということだ。平成の十一代目文治は十三人目という計算になる。五、六代で「文治」は江戸東京に一本化されたが、七代目でいったん上方に戻り、八代目以降は東京に定着している。



 伝統と由緒のある落語家の名前も有為転変を繰り返してきた。ちなみに「桂文楽」は江戸の文治から派生した。江戸前の、つまり上方にルーツのない「桂」である。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。