落語 木戸をくぐれば
第25回「三代目金馬の功績」
私は東京・神田の生まれ育ちで、三十代の後半まで住んでいたのだから、「神田っ子」といっていいだろう。父親筋では三代目、母親筋は五代目の江戸東京在住者だから、「江戸っ子」と称してはばかることもない。
だが当人にしてみれば、それは格別のことではない。それを誇りにも自慢にも思ったことはない。そんなことを特別視する考え方が、かえって"ローカル"なのだとも思う。
ものごころついたのは戦災直後だから、住民は半分以上入れ替わったあとで、まして焼け跡の神田に江戸のなごりなど、かすかにしか残っていなかった。
まだ食糧や衣料が不十分で、毎晩のように停電があったころだが、両親は上野・鈴本演芸場の、いまはなき「回数券」を購入していたくらいだから、私にとってはよき芸環境があったわけだが、神田といえども、すでにそんな家庭は稀少な存在だった。自称江戸っ子たちも、なかなか芸能にまでは手が回りかねる時世だった。
その一方で、ラジオは全国一律にさまざまな芸能、情報を紹介してくれていた。むろんテレビはまだの時代、ラジオもNHKだけという状況だったが、それだけに、良くも悪くもその影響力は大きかった。
三代目三遊亭金馬が『孝行糖』や『居酒屋』を放送すると、翌日の小学校の教室で、それを覚えてしゃべるお調子者がいた。相手が江戸っ子であろうとなかろうと、寄席へ行ったことがあろうとなかろうと、落語は焼け跡に吹き渡る風に乗るように全国に散らばり、明るい笑いをかもしたのだった。
戦後は落語家の協会組織に属さず、寄席よりも電波の放送に仕事場を見つけた金馬は先覚者だった。子どもにもわかる演目を心がけた考え方も並ではない。いま、落語家は全国で仕事をしているが、それは、いわばラジオと金馬が耕した豊かな土壌に実った果実だ。
だが当人にしてみれば、それは格別のことではない。それを誇りにも自慢にも思ったことはない。そんなことを特別視する考え方が、かえって"ローカル"なのだとも思う。
ものごころついたのは戦災直後だから、住民は半分以上入れ替わったあとで、まして焼け跡の神田に江戸のなごりなど、かすかにしか残っていなかった。
まだ食糧や衣料が不十分で、毎晩のように停電があったころだが、両親は上野・鈴本演芸場の、いまはなき「回数券」を購入していたくらいだから、私にとってはよき芸環境があったわけだが、神田といえども、すでにそんな家庭は稀少な存在だった。自称江戸っ子たちも、なかなか芸能にまでは手が回りかねる時世だった。
その一方で、ラジオは全国一律にさまざまな芸能、情報を紹介してくれていた。むろんテレビはまだの時代、ラジオもNHKだけという状況だったが、それだけに、良くも悪くもその影響力は大きかった。
三代目三遊亭金馬が『孝行糖』や『居酒屋』を放送すると、翌日の小学校の教室で、それを覚えてしゃべるお調子者がいた。相手が江戸っ子であろうとなかろうと、寄席へ行ったことがあろうとなかろうと、落語は焼け跡に吹き渡る風に乗るように全国に散らばり、明るい笑いをかもしたのだった。
戦後は落語家の協会組織に属さず、寄席よりも電波の放送に仕事場を見つけた金馬は先覚者だった。子どもにもわかる演目を心がけた考え方も並ではない。いま、落語家は全国で仕事をしているが、それは、いわばラジオと金馬が耕した豊かな土壌に実った果実だ。