落語 木戸をくぐれば
第24回「志ん朝と年齢」
古今亭志ん朝は六十三才のなかばで世を去った。病気だということがそれほど広く世間に知られてはいなかったし、四十日前まで仕事をしていたから、その死は落語ファンを驚かせた。
若いのに、これからだというのに、と嘆かれ、惜しまれたものだった。それは誰にとっても、偽らざる実感であった。亡くなるまで、若いころから清新な華の色を失うことがなかっただけに、もっともっと長生きをして、さらに一段とまろやかな芸を私たちに振舞ってほしかった、と思う。
だが、幕末・明治の大名人・三遊亭圓朝よりは、ほんのわずかだが長生きしている。実兄の十代目金原亭馬生よりは十年も長生きだった。
圓朝の時代は平均寿命が低く、六十歳になれば隠居をするのがふつうだったから比較にならないかもしれないが、名人・巨匠として芸界に重きをなした圓朝には老大家の面影が濃かったので、まさか世間は〝早世〟を惜しみはしなかったろう。
兄の馬生はそれほど時代が遠く離れた人ではない。兄弟の年齢差はちょうど十年である。馬生は明らかに〝早世〟だったが、惜しむ声は、志ん朝の場合とはずいぶん角度がちがっていた。馬生は四十代から老成の雰囲気があって、自身、〝枯れた〟境地を志向していたような面があったためだろう。
時代とともに、また、その人の立場やイメージによって、年齢はさまざまに意味合いを変える。とくに芸の世界においては、年齢は絶対的な基準でも、数値でもない。
「芸のピークって、何才ぐらい?」と古今亭志ん朝に問うたことがある。
「そりゃ、噺によってもちがうがな。若くて声がいいとき、三十代がいい噺もあるしね。一般的には四十から五十代かなあ。ま、落語家は六十代までもつだろうけど--。」
志ん朝がまだ三十七才ぐらいのときの会話の一端だ。
若いのに、これからだというのに、と嘆かれ、惜しまれたものだった。それは誰にとっても、偽らざる実感であった。亡くなるまで、若いころから清新な華の色を失うことがなかっただけに、もっともっと長生きをして、さらに一段とまろやかな芸を私たちに振舞ってほしかった、と思う。
だが、幕末・明治の大名人・三遊亭圓朝よりは、ほんのわずかだが長生きしている。実兄の十代目金原亭馬生よりは十年も長生きだった。
圓朝の時代は平均寿命が低く、六十歳になれば隠居をするのがふつうだったから比較にならないかもしれないが、名人・巨匠として芸界に重きをなした圓朝には老大家の面影が濃かったので、まさか世間は〝早世〟を惜しみはしなかったろう。
兄の馬生はそれほど時代が遠く離れた人ではない。兄弟の年齢差はちょうど十年である。馬生は明らかに〝早世〟だったが、惜しむ声は、志ん朝の場合とはずいぶん角度がちがっていた。馬生は四十代から老成の雰囲気があって、自身、〝枯れた〟境地を志向していたような面があったためだろう。
時代とともに、また、その人の立場やイメージによって、年齢はさまざまに意味合いを変える。とくに芸の世界においては、年齢は絶対的な基準でも、数値でもない。
「芸のピークって、何才ぐらい?」と古今亭志ん朝に問うたことがある。
「そりゃ、噺によってもちがうがな。若くて声がいいとき、三十代がいい噺もあるしね。一般的には四十から五十代かなあ。ま、落語家は六十代までもつだろうけど--。」
志ん朝がまだ三十七才ぐらいのときの会話の一端だ。