落語 木戸をくぐれば
第22回「志ん生と寿命」
五代目古今亭志ん生が生涯に十数回も改名、襲名を繰り返したことはよく知られている。なかなか芽がでず、売れなかったことが最大の原因とされているが、たしかに明治末期の落語入門以降、昭和の初期までは苦難の時代だった。
だが大正末期から昭和初期にかけては寄席芸能自体が苦しく、その被害は志ん生だけが蒙こうむったものではない。新興の映画に押され、関東大震災で東京の寄席の大半が焼けてしまったし、続く世界恐慌で寄席芸能は冷え切っていた。
軍国の時代にかけて落語を廃業した演者も多い。一時落語から講談に転業してまで志ん生は高座に執着しつづけたが、性来の気まま奔放や道楽のために業界に不義理をし、干されたこともあった。そんな状態からの"出直し"がたびたびの改名というかたちになったのだ。
金原亭馬生を襲名したあたりから生活も落ち着き、次第に芸が認められて「志ん生」という大きな名跡に至るのだが、その最後の襲名は数え五十歳のときのことだった。
じつは、それまでの四人の志ん生がいずれも五十歳前後で他界していた。もっとも長生きした人でも還暦には少し間があった。縁起をかつげば襲名をためらうところだ。だが、五代目志ん生は襲名してから売れ出した。そして還暦の坂を越えた戦後に人気が爆発した。大正以前と昭和戦後とでは人間の寿命を比較しようもないが、五代目志ん生はそれまでの四人の志ん生の分を補うかのように長命を保ち、古稀を過ぎて病に倒れたあとも不死鳥のように復活して八十路を何年か越えたのだった。
その反動でもあるまいが長男・十代目金原亭馬生と次男・三代目古今亭志ん朝がそれぞれ五十代と六十代の前半で他界したことを、つい考え合わせてしまう。
だが大正末期から昭和初期にかけては寄席芸能自体が苦しく、その被害は志ん生だけが蒙こうむったものではない。新興の映画に押され、関東大震災で東京の寄席の大半が焼けてしまったし、続く世界恐慌で寄席芸能は冷え切っていた。
軍国の時代にかけて落語を廃業した演者も多い。一時落語から講談に転業してまで志ん生は高座に執着しつづけたが、性来の気まま奔放や道楽のために業界に不義理をし、干されたこともあった。そんな状態からの"出直し"がたびたびの改名というかたちになったのだ。
金原亭馬生を襲名したあたりから生活も落ち着き、次第に芸が認められて「志ん生」という大きな名跡に至るのだが、その最後の襲名は数え五十歳のときのことだった。
じつは、それまでの四人の志ん生がいずれも五十歳前後で他界していた。もっとも長生きした人でも還暦には少し間があった。縁起をかつげば襲名をためらうところだ。だが、五代目志ん生は襲名してから売れ出した。そして還暦の坂を越えた戦後に人気が爆発した。大正以前と昭和戦後とでは人間の寿命を比較しようもないが、五代目志ん生はそれまでの四人の志ん生の分を補うかのように長命を保ち、古稀を過ぎて病に倒れたあとも不死鳥のように復活して八十路を何年か越えたのだった。
その反動でもあるまいが長男・十代目金原亭馬生と次男・三代目古今亭志ん朝がそれぞれ五十代と六十代の前半で他界したことを、つい考え合わせてしまう。