落語 木戸をくぐれば
第21回「団体真打のルーツ」
平成になって以降、落語家の総人口は微増し続けていて、史上最多数状況を更新する日常となっている。
定席じょうせきの寄席の数が東京で四軒という史上最少現象が継続する中でのことである。この矛盾した現実は、落語の場が寄席を核としながらも、寄席以外に大きく拡大していることを物語っている。
昭和三十年代から四十年代にかけても、落語家志願者がいちじるしく増加したことがあった。ラジオを中心に演芸ブーム現象があったころで、当時の若者が芸人への憧れを抱いたからだろう。
その時期、すでに寄席の軒数は平成の二倍には届かなかった。落語の市場はまだそれほど外部に拡大していない。落語家になったはいいが暮らしに困るのは目に見えている。そこで落語協会は一時期、入門禁止令を発したほどだった。
もっと以前、終戦直後にも入門者がかなりあった。食うや食わずの時代に芸人志望とは、と思われるだろうが、どうせ何をやっても不安いっぱいの時代だったので、好きな落語で一いちか八ばちかの勝負をしようと思ったのだろう。そのころ一世を風靡していた爆笑王・三遊亭歌笑をめざしたのかもしれない。
急増した人材への対策だろうか、日本芸術協会(現・落語芸術協会)は昭和三十三(一九五八)年九月に六人を一挙に真打に昇進させた。春風亭柳昇はその一員だ。他には桂伸治(のちに十代目文治)、三遊亭小円馬、三笑亭夢楽、山遊亭金太郎改メ二代目桂小南、春風亭笑好改メ四代目柳好がいた。
のちに議論を呼び、二十年後には落語協会分裂騒動の引き金にもなった「団体真打」の、これが走りだったとも言えるが、のちに揃って大成したのだから、この六人は逸材ばかり、後世の「団体真打」とは一線を画している。しかし、落語界が〝人口問題〟に悩み、集団昇進を唯一の対策とする時代は目前に迫っていたのだ。
定席じょうせきの寄席の数が東京で四軒という史上最少現象が継続する中でのことである。この矛盾した現実は、落語の場が寄席を核としながらも、寄席以外に大きく拡大していることを物語っている。
昭和三十年代から四十年代にかけても、落語家志願者がいちじるしく増加したことがあった。ラジオを中心に演芸ブーム現象があったころで、当時の若者が芸人への憧れを抱いたからだろう。
その時期、すでに寄席の軒数は平成の二倍には届かなかった。落語の市場はまだそれほど外部に拡大していない。落語家になったはいいが暮らしに困るのは目に見えている。そこで落語協会は一時期、入門禁止令を発したほどだった。
もっと以前、終戦直後にも入門者がかなりあった。食うや食わずの時代に芸人志望とは、と思われるだろうが、どうせ何をやっても不安いっぱいの時代だったので、好きな落語で一いちか八ばちかの勝負をしようと思ったのだろう。そのころ一世を風靡していた爆笑王・三遊亭歌笑をめざしたのかもしれない。
急増した人材への対策だろうか、日本芸術協会(現・落語芸術協会)は昭和三十三(一九五八)年九月に六人を一挙に真打に昇進させた。春風亭柳昇はその一員だ。他には桂伸治(のちに十代目文治)、三遊亭小円馬、三笑亭夢楽、山遊亭金太郎改メ二代目桂小南、春風亭笑好改メ四代目柳好がいた。
のちに議論を呼び、二十年後には落語協会分裂騒動の引き金にもなった「団体真打」の、これが走りだったとも言えるが、のちに揃って大成したのだから、この六人は逸材ばかり、後世の「団体真打」とは一線を画している。しかし、落語界が〝人口問題〟に悩み、集団昇進を唯一の対策とする時代は目前に迫っていたのだ。