落語 木戸をくぐれば

第19回「四天王」
 むかしから人材の集団を数で表すならわしがある。三羽烏さんばがらす、四天王は代表的なもの。五人男は平凡な表現だが歌舞伎人気狂言の通称『白浪五人男』があるせいか、わりあいよく使われる。



 人数が多くなると七人衆もあるし、豊臣秀吉麾下きかの「賤ヶ嶽の七本槍」は、むかしはかなり高名だった。六人組はあまり幅がきかないが、人間以外では「八大竜王」や「里見八犬伝」がある。



 松尾芭蕉門下の「蕉門の十哲」や、多分に架空性が高い真田十勇士などの十人組もあるが、あまり人数が多いと名前を覚えきれない難点がある。



 寄席演芸の世界にも「四天王」があった。まずは明治十年代から二十年代にかけて。西暦だと一八八〇年代あたりということになる。



 その四人は、三遊亭圓遊、橘家圓太郎、三遊亭萬橘、立川談志。いずれも名前のとおり、れっきとした落語家だが、四天王、つまり天下をとった四人というほど人気があったのは、本芸の落語ではなく、いわば余興のような〝珍芸〟だった。



 圓遊は落語の改作にも足跡を残した人で、落語も相当おもしろかったようだが、ヒットの要因は高座踊りの「ステテコ踊り」。ステテコステテコと唱えながらギャグを言い、軽妙な手踊りをした。圓太郎は当時東京市民の足だった鉄道馬車のラッパを吹いては風刺ギャグを連発したという。萬橘は「ヘラヘラ」で、ヘラヘラヘッタラヘラヘラヘと言いつつ手踊りをしてギャグをふりまいたらしい。談志は古代中国の親孝行説話「廿四孝」の中の郭巨かっきょの釜掘りを題材にした風刺漫談混じりの踊りをやった。



 どんな芸で、どうおもしろかったのか、今となっては想像するのが困難だが、鉄道馬車に一時「圓太郎馬車」の異名がつき、男性下着のパッチが「ステテコ」に名を変えたというのだから偉大なものだ。



 それから百年ほど、一九八〇年前後に落語界にはまた「四天王」が現れた。古今亭志ん朝、三遊亭圓楽、立川談志、春風亭柳朝。柳朝はのちに月の家圓鏡(八代目橘家圓蔵)にバトンタッチした。今度は〝珍芸〟ではなく、本芸での「四天王」であった。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。