落語 木戸をくぐれば
第18回「小さんの超世代ぶり」
昭和三十年代は落語の黄金時代だったと、よくいわれる。次々に開局する民放ラジオがふんだんに落語の放送を流した。その需要に応えるだけの人材が落語界にはあふれていた。東京ではホール落語会が権威を確立してチケットの入手は困難をきわめた。
そのころにくらべて平成の落語界が低調であるとは思わない。若い落語ファンが若手落語家の〝追っかけ〟をするという、ミニ・ブーム現象は、世の中がちがうとはいえ、あの昭和三十年代にもなかったことだ。しかし、落語の世界が一種の〝重み〟を持っていたのは、やはりあの時代――、西暦でいえば一九六〇年前後のことである。
そのころの大物落語家で、平成の落語ミニ・ブーム時代まで永らえたのは、五代目柳家小さんただ一人だ。見方を変えれば、小さんは異例の若さで大物――、大看板のポジションに就いていたので、二度のエポックに居合わせたということだ。
三十五歳の若さで大名跡・小さんを襲名したという運はある。軍国日本と戦後の混乱期の影響で同世代あるいは前後の世代の入門者が少なく、ライバル不在だったという事情もある。
だが物事は「一枚の紙にも裏表」のたとえ通りだ。真打昇進直後に師・四代目小さんに死別したのは大きな不幸だったし、ライバル不在も芸の上のマイナス要因になりかねない。しかも、先輩が大勢健在で小さんの前に立ちはだかっていた。その中へ割って入るのは、ひどく難事業だったにちがいない。
だが、師匠が早く死んだので若くして名跡を襲名した。応援する識者にも恵まれて、その名跡にふさわしい活躍の場も与えられた。そして小さんにはそれに応える実力があった。
私は少年時代、小さんがそんなに若いとは知らずに聴いていた。六十代の桂文楽、古今亭志ん生、五十代の三遊亭圓生、桂三木助と並んで、四十代になったばかりの小さんは、ホール落語会になくてはならない存在になっていた。落ち着きのある、老成型のタイプではあったが、巧さでもすでに先輩に遜色がなかった。
私がいちばん長く聴き続けた落語家は、五代目柳家小さんである。技巧もすぐれていたが、それ以上に自然ににじみ出る人間味こそが、芸にとっては大切なのだということを教えてくれた恩人でもある。
そのころにくらべて平成の落語界が低調であるとは思わない。若い落語ファンが若手落語家の〝追っかけ〟をするという、ミニ・ブーム現象は、世の中がちがうとはいえ、あの昭和三十年代にもなかったことだ。しかし、落語の世界が一種の〝重み〟を持っていたのは、やはりあの時代――、西暦でいえば一九六〇年前後のことである。
そのころの大物落語家で、平成の落語ミニ・ブーム時代まで永らえたのは、五代目柳家小さんただ一人だ。見方を変えれば、小さんは異例の若さで大物――、大看板のポジションに就いていたので、二度のエポックに居合わせたということだ。
三十五歳の若さで大名跡・小さんを襲名したという運はある。軍国日本と戦後の混乱期の影響で同世代あるいは前後の世代の入門者が少なく、ライバル不在だったという事情もある。
だが物事は「一枚の紙にも裏表」のたとえ通りだ。真打昇進直後に師・四代目小さんに死別したのは大きな不幸だったし、ライバル不在も芸の上のマイナス要因になりかねない。しかも、先輩が大勢健在で小さんの前に立ちはだかっていた。その中へ割って入るのは、ひどく難事業だったにちがいない。
だが、師匠が早く死んだので若くして名跡を襲名した。応援する識者にも恵まれて、その名跡にふさわしい活躍の場も与えられた。そして小さんにはそれに応える実力があった。
私は少年時代、小さんがそんなに若いとは知らずに聴いていた。六十代の桂文楽、古今亭志ん生、五十代の三遊亭圓生、桂三木助と並んで、四十代になったばかりの小さんは、ホール落語会になくてはならない存在になっていた。落ち着きのある、老成型のタイプではあったが、巧さでもすでに先輩に遜色がなかった。
私がいちばん長く聴き続けた落語家は、五代目柳家小さんである。技巧もすぐれていたが、それ以上に自然ににじみ出る人間味こそが、芸にとっては大切なのだということを教えてくれた恩人でもある。