落語 木戸をくぐれば

第16回「昭和は長く、志ん朝は・・・・・・」
 古今亭志ん朝は昭和十三(一九三八)年の三月十日に生まれ、平成十三(二〇〇一)年十月一日に他界した。誕生のころ、三月十日という日は「陸軍記念日」の祝日だった。



 陸軍記念日とは、かつての日露戦争の終盤での、奉天大会戦の戦勝を記念したものだ。これで日本の勝利がほぼ確定したという。奉天はいま審陽と名を変え、その勝利(明治三十八―一九〇五年)から一世紀が経過した。



 志ん朝誕生のころは日中戦争が拡大していた。ナチス・ドイツがチェコスロバキア(当時)に領土要求をつきつけ、一年半後にヨーロッパは第二次世界大戦に突入する。そんな時節柄、男の子には勇壮な名前が付けられることが多い。志ん生のような芸人の家もご多聞に洩れずで、次男坊志ん朝は「強次」と命名された。



 もういちど、志ん朝の生年と没年をたしかめる。昭和十三年、そして平成十三年。妙に「十三」に縁がある。西洋では不吉の数字とか言われるが、日本の元号のことだから気にするには及ばない。数値そのものよりも、ともに「十三」という因縁に釘付けになる。



 つまり、古今亭志ん朝は全体として十三年ずれてはいるが、「昭和」という元号とほぼ同じ期間を生きたわけだ。十三年遅れて昭和を追い、十三年の余白で昭和と帳尻を合わせた、その生涯。



 昭和元年は一週間しかなかった。昭和最後の年・六十四年も、奇しくも一週間でピリオドを打った。昭和の実尺は六十二年と二週間ということだ。



 志ん朝は昭和よりほんの少し長い生涯を記した。六十二年六ヶ月と三週間である。訃報の年齢は六十三歳とカウントされている。



 軍国主義、敗戦、食糧難、復興、高度成長、経済大国、バブル崩壊―激動の昭和を人々は長かったと口々に言う。かりに平穏無事であったとしても、明治より十五年以上長い時代だった。



 しかし、志ん朝の生涯を長かったと言う人が、落語ファンに一人でもいるだろうか。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。