落語 木戸をくぐれば

第14回「志ん朝さんさようなら」
 二十世紀も終わる二〇〇〇年の初め、私はあるパーティである人を古今亭志ん朝に紹介した。



 志ん朝さんは、その話術でいきいきと描く江戸っ子のように調子よく、あけっぱなしの人ではない。こういう場で挨拶まみれの目に遭うのは好まない。繊細な表現が出来る人は、やはり神経もこまやかなものである。



 それでも、ごく少人数、立食の宴だったし、しかも志ん朝さんとはすでに勝手知ったる出席者がほとんどの場だったから、たいして気を兼ねることもなかった。とりあえず引き合わせ、風向き次第ですぐに右左に別れても、何の不自然もない。



 押しも押されもしない斯界の第一人者と顔を合わせる。落語の好きな人ならば、これはうれしい。その人はその感動と緊張を素朴な形容詞の連発で表すほどたしなみのない人物ではなかったから、四十年も前の話から初対面の口上に入った。



「東横で、ずいぶん聴かせていただきまして・・・・」



 東横とは、渋谷の東横百貨店、現在の東急百貨店東横店の上階にあった東横ホール、のちの東横劇場で開催されていた「東横落語会」のことである。落語の世界では「東横」といえば、いまだに電車でもデパートでもない。
「ああ、そうですか。それはどうも」



 志ん朝さんは反射的のように、そう答えた。お客様に対しては、それが仮に自分の会の客でなくても、落語家としてまずは礼を言う。それが噺家の心得であり、習性のようなものである。何十年も前のことであっても、あたかもきょうのことのように感謝を述べるのだ。
だがそのあと、話はそれほどはずまなかった。あとから思えば、すでにこのころから兆していたのだろうが、志ん朝さんは少し体調が思わしくなく、気分が晴れていなかったのだ。そのせいか、この日はあまり、昔話をしたくなかったようだった。



 東横落語会は一九五六(昭和三十一)年から三十年ほど続いたホール落語会の代表的存在だ。初期の五年間は桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭圓生、桂三木助、柳家小さんの五人を鉄壁のレギュラーにし、チケットの入手はすこぶる困難だった。



 短期間だが、サブ企画で「若い東横落語会」というのもあった。それほど落語界多士済々の時代を「東横」は象徴したのだった。東横の高座で腕を磨き、競った往時の若手の多くが平成の落語を支えている。とくに古今亭志ん朝と立川談志はそのころから目立っていた。太陽族、ロカビリー、カミナリ族、安保闘争、学生運動・・・、時代が次第に若者主導になる中で、志ん朝は同世代の「感性」に、談志は「意識」にアピールし、しかも年配者からも一目置かれていたのである。



 パーティの人の流れに淀みはない。二人になって私は、



「東横・・・。もう遠いむかしですね」



 と言った。



「そう、そうなんだ」



 と志ん朝さん。そしてしばし、口をつぐむ。甘くも苦くもあったろう遥か彼方の青春を唐突に回顧させられた・・・。そんなとまどいがうかがえた。



 それから一年半ほどたって、私たちの青春をも道連れにするように、志ん朝さんはもっと遠くへ行ってしまった。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。