落語 木戸をくぐれば
第13回「可楽の魅力」
『らくだ』の兄貴分や、『睨み返し』が絶品とうたわれたように、ギロリと睨みがきいた八代目三笑亭可楽。寄席のかぶりつきで聴いたなら、その口から飛び散るつばを浴びそうに思われた三笑亭可楽。
およそ、二枚目、色男には縁の遠そうな戦後の――、晩年の可楽だったが、昭和の初め、柳楽という名のころは、ずいぶんもてたらしい。
といっても、はなし家のこと、まして売り出し前、世の中は昭和初頭の大不況のさなかである。お金を使って花柳界でもてたというわけではない。女性のほうから可楽に入れ上げた、つまり尽して、面倒をみた、というのだから、これはうらやむべき?正真正銘の色男だろう。
今では古典芸能・純邦楽に扱われる「小唄」の歴史は実は浅いもので、ジャンルとして確立したのは大正から昭和の初めにかけてである。そして戦後十数年ほどの時期に黄金時代を築いた。その小唄初期のリーダーに小唄幸兵衛という人物がいた。腕利きの板前から芸に転身した人で、落語の『小言幸兵衛』に因んで名乗った粋人である。
その幸兵衛の初期の高弟に幸こう久和くわという女性がいた。芸もよかったが、可楽になった柳楽と同棲した人としても知られている。その話は、幸兵衛の娘で家元を継いだ小唄幸子こうこから、また、そのころの可楽と実懇だった劇作家・宇野信夫から、ずいぶん聞かされた。
落語家として売り出す前に女性のパトロンに恵まれたとは、そうざらにあることではないが、それがエピソードになったのは、可楽が晩成ながら大成功を収めたからである。
ぼやきのようなペーソスのある語り口、といわれた可楽だったが、もっとつきつめれば、芝居でいう捨ぜりふ、つまり、台本にない、思わずこみ上げたせりふをスパッと言い捨てるような、そんな語り口だった。そこには一見投げやりめいた、しかし人生の機微にふれる味わいが感じられる。
若いころの可楽の、そんな風情に女性は一種の男っぽさを感じ、あるいは母性本能をくすぐられたのではなかろうか。その不思議な魅力は晩年になるほど男女の垣根を超え、広く落語愛好家共有のものとなったのだが、そのとき余命は十年足らずしかなかった。
およそ、二枚目、色男には縁の遠そうな戦後の――、晩年の可楽だったが、昭和の初め、柳楽という名のころは、ずいぶんもてたらしい。
といっても、はなし家のこと、まして売り出し前、世の中は昭和初頭の大不況のさなかである。お金を使って花柳界でもてたというわけではない。女性のほうから可楽に入れ上げた、つまり尽して、面倒をみた、というのだから、これはうらやむべき?正真正銘の色男だろう。
今では古典芸能・純邦楽に扱われる「小唄」の歴史は実は浅いもので、ジャンルとして確立したのは大正から昭和の初めにかけてである。そして戦後十数年ほどの時期に黄金時代を築いた。その小唄初期のリーダーに小唄幸兵衛という人物がいた。腕利きの板前から芸に転身した人で、落語の『小言幸兵衛』に因んで名乗った粋人である。
その幸兵衛の初期の高弟に幸こう久和くわという女性がいた。芸もよかったが、可楽になった柳楽と同棲した人としても知られている。その話は、幸兵衛の娘で家元を継いだ小唄幸子こうこから、また、そのころの可楽と実懇だった劇作家・宇野信夫から、ずいぶん聞かされた。
落語家として売り出す前に女性のパトロンに恵まれたとは、そうざらにあることではないが、それがエピソードになったのは、可楽が晩成ながら大成功を収めたからである。
ぼやきのようなペーソスのある語り口、といわれた可楽だったが、もっとつきつめれば、芝居でいう捨ぜりふ、つまり、台本にない、思わずこみ上げたせりふをスパッと言い捨てるような、そんな語り口だった。そこには一見投げやりめいた、しかし人生の機微にふれる味わいが感じられる。
若いころの可楽の、そんな風情に女性は一種の男っぽさを感じ、あるいは母性本能をくすぐられたのではなかろうか。その不思議な魅力は晩年になるほど男女の垣根を超え、広く落語愛好家共有のものとなったのだが、そのとき余命は十年足らずしかなかった。