落語 木戸をくぐれば

第12回「日常であって日常ではない小三治落語」
 落語ってものは――、と柳家小三治は言う。



 どこにでもある、誰もが体験する、そんなありふれた「日常」をひと切れ切り取って、それを、ありそうもないほどにおもしろく聞かせる――、そういうものじゃないでしょうかねえ、と。



 そんなことを話し合ったのは、昭和も末のころのことだ。また発言の細部は私の記憶の中でデフォルメされているかもしれない。その後、小三治の考え方に変化があったかもしれない。が、東京落語界のトップランクに昇りつめたころの柳家小三治が、そんな趣旨をよく口にしたことは事実である。



 自分の死骸を自分で引き取りに行く男の噺がある。師・五代目柳家小さんと二代続く十八番『粗忽長屋』だ。



 そんなばかげた話があってたまるものか。そう思うのが普段そのままの日常。たしかにそんな人間がやたらにいた日には、交番はお手上げになってしまう。日常は、異常であってほしくない。



 異常のない日常はしかし、平穏だが退屈なものだ。異常があってこそ、笑いも生まれる。フィクションにもなる。落語にもなる、というわけだ。そそっかしい人はいっぱいいるし、落ち着き払った人でも「頭の中が真白」になるようなことがある。粗忽長屋の住人ならば、自分の死骸を抱いて泣く一瞬があるかもしれない。



 名作『粗忽長屋』は、誰にでもあり得る錯覚や忘我を、世の中にありそうもないほどコミカルに仕立てた落語だ、というわけである。



 小三治十八番『かんしゃく』の主人公は、誰もの心の中にある要素が何十倍も濃縮された人物なのだ。『出来心』は、泥棒という特殊な「職業」を設定することで、どうにも人生にまとまりがつかない男、倫理観も薄いが悪意も一人前にはもてない、中途半端な一人の大人を目一杯戯画化している、ということだろう。



 十代目柳家小三治は伝承の〝古典落語〟を巧みに、鮮かにしゃべるのをめざさなかった落語家だ。いつも「人間」と「日常性」の視点から、小三治好みの、そして小三治独特の人物像を造形して聴かせてくれる。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。