落語 木戸をくぐれば
第11回「志ん生遅咲きの開花」
古今亭志ん生が十数回も改名しているのは有名な話だ。大看板に登り詰めた落語家としては異例の多さだが、それは苦節の人生の証明でもある。
そんなに遠く離れた歴史上の人物でもないのに、すでに落語家としての出発点さえ、少々はっきりしないところがある。本人は、尊敬する名人、四代目橘家圓喬に弟子入りしたと言っていたようだが、どうも二代目三遊亭小圓朝門下らしい。その前に、セミプロの大物だった圓盛という人に草鞋わらじを脱いでいたともいわれている。
だが、志ん生の芸風が芸風だったから、なおさら謎めいて見られるのであって、明治、大正あたりまでの寄席芸人の世界は昭和戦後以降とはちがって、ずいぶん混邨としていたようだから、出処進退にはっきりしないところがあるのは、志ん生だけの特例でもない。
息子の古今亭志ん朝はマクラで志ん生の語る故事に触れて、当てにはなりません、根が「嘘つきの人でしたから」と言ったことがある。お客を笑わせるための言い方だから、それを鵜呑みにするわけにはいかないが、いい加減なことを言う習性はあったのではなかろうか。
志ん生はある噺のマクラで、「若い時分に寄席で圓朝なぞを聴いた・・・・・・」うんぬん、と言っていたが、志ん生がものごころついたころ、すでに三遊亭圓朝は寄席出演から退いていたはずだから、首をかしげてしまう。
が、それを嘘だと断定もできない。何しろ志ん生一流の文法不在の話法なのだから、圓朝の弟子が演じた圓朝作の噺を聴いた、というつもりでしゃべったのだと言い抜けられれば反論は成り立たない。
若い頃は楽屋での評判も悪く、まともに演じていてもちっともウケなかった志ん生に光明が射したのは、初代柳家三語楼の一門に加わってからのことだ。大正期に当世落語の王者として一世を風靡した三語楼は志ん生に「自分のやりたいことばかりやっていては駄目だ」とアドバイスしたという。一途に正統落語をめざしていた志ん生はおそらく、ここで捨て身の方向転換を図って、見事に遅咲きの花を咲かせたのだった。
そんなに遠く離れた歴史上の人物でもないのに、すでに落語家としての出発点さえ、少々はっきりしないところがある。本人は、尊敬する名人、四代目橘家圓喬に弟子入りしたと言っていたようだが、どうも二代目三遊亭小圓朝門下らしい。その前に、セミプロの大物だった圓盛という人に草鞋わらじを脱いでいたともいわれている。
だが、志ん生の芸風が芸風だったから、なおさら謎めいて見られるのであって、明治、大正あたりまでの寄席芸人の世界は昭和戦後以降とはちがって、ずいぶん混邨としていたようだから、出処進退にはっきりしないところがあるのは、志ん生だけの特例でもない。
息子の古今亭志ん朝はマクラで志ん生の語る故事に触れて、当てにはなりません、根が「嘘つきの人でしたから」と言ったことがある。お客を笑わせるための言い方だから、それを鵜呑みにするわけにはいかないが、いい加減なことを言う習性はあったのではなかろうか。
志ん生はある噺のマクラで、「若い時分に寄席で圓朝なぞを聴いた・・・・・・」うんぬん、と言っていたが、志ん生がものごころついたころ、すでに三遊亭圓朝は寄席出演から退いていたはずだから、首をかしげてしまう。
が、それを嘘だと断定もできない。何しろ志ん生一流の文法不在の話法なのだから、圓朝の弟子が演じた圓朝作の噺を聴いた、というつもりでしゃべったのだと言い抜けられれば反論は成り立たない。
若い頃は楽屋での評判も悪く、まともに演じていてもちっともウケなかった志ん生に光明が射したのは、初代柳家三語楼の一門に加わってからのことだ。大正期に当世落語の王者として一世を風靡した三語楼は志ん生に「自分のやりたいことばかりやっていては駄目だ」とアドバイスしたという。一途に正統落語をめざしていた志ん生はおそらく、ここで捨て身の方向転換を図って、見事に遅咲きの花を咲かせたのだった。