落語 木戸をくぐれば
第9回「五代目圓楽の大調子」
六代目三遊亭圓生はよく、近未来を担う落語家として「志ん朝・圓楽・談志」の名をあげた。
名前の順序にそれほど意味があるとは思えない。落語協会でのその当時の序列がそうだったし、口にしたときの語呂のよさもあっただろう。それに、自分の弟子を真っ先に挙げるのを控えるのは、昔の人のマナーのようなものでもあった。
「圓楽は大調子(おおぢょうし)ですからねえ。そういう人のほうがやはり、先ゆき伸びるんです」とも言っていた。
圓生は七十歳代になって「名人」と尊敬されるようになったが、五十代になるまでは長い雌伏の芸人行路だった。そのキメの細かさ、語り口の穏かさゆえに、大衆にアピールしにくかったわけだが、それだけに自分の持ち前にはない「大調子」に、師匠ながら羨望を禁じ得なかったのではなかろうか。
落語に限ったことではないが、若いうちから小さなスケールで達者に何でもこなす人は、どんなに技が巧みであっても、大きなスケールに育つことはないようだ。圓生が特異な例外なのであって、小器用に型にはまる人は、遠からず小成の道を辿って先細る。
「星の王子さま」をキャッチフレーズに売り出した若手の頃、五代目三遊亭圓楽はその当時の若者たちと共通するものの言い方で、また彼らと同じ言語センスで、古典落語を明朗闊達にしゃべっていた。言語センス性、同時代性という点では、師が名をあげた他の二人よりずっと大胆な高座ぶりだった。
それまでの「若手」が江戸前、あるいは明治大正的語り口の範囲内で落語を安全運転していたのとは大きなちがいだった。新作落語をさえ、古い落語口調でこなす人が多かったのだ。
同時代・同世代の言語性で落語を演じるほうが、新作をやる以上に勇気のいることだ。その勇気ある挑戦と成果を目のあたりにして、後続の若手の中に、シャープな現代型古典を試みる者が現れるようになった。五代目圓楽本人はそれをあまり誇ろうとはしなかったようだが、歴史はここで静かながら大きな一歩を印している。
名前の順序にそれほど意味があるとは思えない。落語協会でのその当時の序列がそうだったし、口にしたときの語呂のよさもあっただろう。それに、自分の弟子を真っ先に挙げるのを控えるのは、昔の人のマナーのようなものでもあった。
「圓楽は大調子(おおぢょうし)ですからねえ。そういう人のほうがやはり、先ゆき伸びるんです」とも言っていた。
圓生は七十歳代になって「名人」と尊敬されるようになったが、五十代になるまでは長い雌伏の芸人行路だった。そのキメの細かさ、語り口の穏かさゆえに、大衆にアピールしにくかったわけだが、それだけに自分の持ち前にはない「大調子」に、師匠ながら羨望を禁じ得なかったのではなかろうか。
落語に限ったことではないが、若いうちから小さなスケールで達者に何でもこなす人は、どんなに技が巧みであっても、大きなスケールに育つことはないようだ。圓生が特異な例外なのであって、小器用に型にはまる人は、遠からず小成の道を辿って先細る。
「星の王子さま」をキャッチフレーズに売り出した若手の頃、五代目三遊亭圓楽はその当時の若者たちと共通するものの言い方で、また彼らと同じ言語センスで、古典落語を明朗闊達にしゃべっていた。言語センス性、同時代性という点では、師が名をあげた他の二人よりずっと大胆な高座ぶりだった。
それまでの「若手」が江戸前、あるいは明治大正的語り口の範囲内で落語を安全運転していたのとは大きなちがいだった。新作落語をさえ、古い落語口調でこなす人が多かったのだ。
同時代・同世代の言語性で落語を演じるほうが、新作をやる以上に勇気のいることだ。その勇気ある挑戦と成果を目のあたりにして、後続の若手の中に、シャープな現代型古典を試みる者が現れるようになった。五代目圓楽本人はそれをあまり誇ろうとはしなかったようだが、歴史はここで静かながら大きな一歩を印している。