落語 木戸をくぐれば

第8回「史上最高の柳昇」
 二〇〇二年の暮れに春風亭柳昇入院の噂を聞いた。手術を受けるという。高齢なので危ぶんだが、春先の復帰高座ではすっかり回復しているように見えた。



 声もよく出る。旧軍人の鍛えた足腰ゆえか、高座への出入りは後輩の落語家たちより、ずっと元気そうだったから、これでしばらくは大丈夫、と安心したのだった。



 だが、そのときの元気な『里帰り』が私にとっては聴き納めになってしまった。二ヶ月後、柳昇師匠は遠いところの人となっていた。



 軍人体験が看板でもあったから、マクラでタカ派的発言をすることも少なくなかったが、とぼけた持ち味と、奥底にある優しさとが、タカにまさるハトの役割をしていた。心優しいユーモア――それが、柳昇落語の真髄だったと思う。



 戦争で負った怪我の後遺症のため、しぐさの多い古典落語をあきらめ、自作中心の道を歩んだと聞くが、あの屈託のない柳昇落語の蔭には、ずいぶん辛酸の思いもあったのではなかろうか。柳昇ばかりではなく、戦争直後の荒廃と窮乏の時代に芸の道を歩んだ人たちは、決してただの「おじさん」ではない。



 「春風亭柳昇」という名前が、「名跡」といえるほどに大きくなったのは、この柳昇からだと言っていい。それまではどちらかというと二ツ目あるいは若手真打の名前だった。のちに大看板に、あるいは、ひとかどの落語家になったとしても「柳昇時代」はその途中過程にすぎない。



 『芝浜』を十八番にした三代目桂三木助が、三つほど前の名前として柳昇を名乗っていたという事実が、いちばん最近の、典型的な例と言える。亡き柳昇は自分の師匠・春風亭柳橋の名跡を継がずに、『芝浜』の三木助門下から移籍してきた後輩にゆずって、自分は独自の芸境を拓き、改名も襲名もしなかった。これからは「柳昇」が大きな「名跡」として受け継がれていくことだろう。



 葬送の際は愛弟子・春風亭昇太がトランペットで消灯ラッパを吹奏した。日々、直立不動の敬礼をしていたであろう軍人と、あの、角のとれ切った話術とはイメージが重なりにくいが、その隔差と変貌の空間に、柳昇落語の「芸」のカギがあるのだろう。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。