落語 木戸をくぐれば

第6回「落語家とタレント」
 タレントということばが一般に使われるようになったのは、いつごろなのだろうか。古代ギリシャでは通貨の単位だったといい、才能・技倆を表すことばとして、さらにはその持ち主である人物を指すことばとして用いられてきた。



 落語家はもとより、音楽家も作家もスポーツ選手も、料理人や職人も、いや、アマチュアであっても特技をもつ人は、本来の意味で、ひとしくタレントにちがいない。



 いつのころからか、「タレント業」なる概念が生まれてきた。タレント・イコール・タレント業をしている人を「タレント」ととらえるのが、いまどきとしては第一義なのかもしれない。



 で、何のタレントなんです?などと問い返しては野暮ということになる。タレントだからタレントなんです、と回答されたら、まるで落語の「根問い」のようになる。つまり、「タレント」という名のタレントが、タレントというわけ。



 これは決してことばの誤用ではない。才能というものへの考え方が変わってきたのだ。その引き金役をしたのは、おそらくテレビではなかろうか。



 茶の間でスイッチを入れれば、わずかな電気代だけで、芸能やスポーツ、ショーや映画まで見ることができる。やがて報道までがショーのように見られるようになる。メディアが人心を変えたというより、風潮に馴れて人々自体が変わってきたのだ。そして人々の求めるものも変わったのではなかろうか。



 遅巻きながら落語家も「国宝」に認定される御時世になったが、いま人々の求める「芸」の主流は、鍛え抜かれた神のような名人芸よりも、もっと身近で人間的な、くつろがせるものにちがいない。その意味では落語家も「タレント」化の時代に入っている。



 明治生まれの名人が揃っていた戦後しばらくの頃から現在へと変貌した落語界には、変化の舵取り役となった落語家=タレントが何人もいた。三代目三遊亭圓歌がよく語る兄弟子・三遊亭歌笑は、その第一号だろう。圓歌は近ごろよく、『昭和芸能史』と題して戦後落語界の『三国志』を高座で語る。林家三平とともに舵取り役をつとめ、だいぶホラもあるが、半世紀以上にわたって落語史を歩んできた人の証言にして笑言は、なつかしくもまたおもしろい。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。