落語 木戸をくぐれば

第5回「小さんに虫がついた」
 私が実演で初めて聴いた五代目柳家小さんの『棒鱈(ぼうだら)』には、おかしな思い出がある。



 戦後の復興期は落語の隆盛期でもあった。とくに、一九五〇年代に入って民間ラジオ局が次々に開局すると、落語は重宝がられて番組を大いに賑した。落語界に人材が豊富だったから、花も実もある落語が電波に乗って全国に浸透するようになった。



 落語界の今日あるは、五〇~六〇年代ラジオと、そこで活躍した先人落語家たちの功によるところが小さくない。放送には時間の枠という制約がつきものだが、それでも寄席よせの浅い出番よりは長くやれたし、三十分枠の独演番組もあったから、選ばれた演者をじっくり聴く習慣が定着し、もっとたっぷり聴きたいという欲求も生んだのだった。



 それに応えることになったのが、東京など大都会での〝ホール落語〟だった。これは一九〇五(明治三十八)年以来断続的な歴史を持つ「落語研究会」のスタイルを興行化したもので、まず一九五三(昭和二十八)年に日本橋の三越劇場で「三越落語会」が、五六(昭和三十一)年に渋谷の東横ホール、のちの東横劇場で「東横落語会」が旗を揚げた。



 デパート寄席などとも呼ばれたが、集客催事のひとつに落語が選ばれたわけで、三越は月一回、東横は当初年六回だったが、やがて毎月の例会となった。そのころは若手、中堅一、二名を含め七人の出演がスタンダードで四時間に迫る長丁場だった。八〇年代後半、つまり昭和の末あたりからは五人、二時間半が相場だから、アミューズメントの単位時間は時代によって大きく違う。



 冷暖房完備の指定席で厳密な時間枠のない競演を心ゆくまで楽しむ。ホール落語は寄席ともラジオとも異なる独特の落語空間を形成した。高座を勤める大看板はいずれも明治生まれ。文楽(八代目)、金馬(三代目)、柳橋(六代目)のように大正末期、昭和初期から人気の出たベテランが健在だった。



 ただひとり、大正生まれのレギュラー出演者がいた。五代目小さんである。若くして大名跡を襲いだが、五〇年代なかばはまだ四十路に入ったばかり、晩年のように真ん丸に肥えた顔ではなく、頬骨のせいで多少菱形に見えた。重心の低い抑えた芸風は晩年と変わらないが、若さのエネルギーがみなぎり、間(ま)はリズミカルでメリハリのコントラストもくっきりしていた。



 一九五六(昭和三十一)年八月十九日・日曜日のことだ。第四十一回三越落語会。演者と演目を記すと、春風亭橋之助『たぬき』、春風亭柳枝『野晒し』、柳家小さん『棒鱈』、春風亭柳橋『麻のれん』、三遊亭円歌『理屈按摩』、三遊亭圓生『付き馬』、桂三木助『化物使い』。開演は一七時、指定席入場料百八十円。出演者全員がすでに故人である。



 小さんがしゃべり始めてまもなく、一匹の虫が舞台をブンブン飛び回った。時折、演者にニアミスを試みる。小さんは都度手で払い、やりにくそうにしゃべる。落語とは無関係の笑いが混じり始めた。とうとう虫は小さんの頬にとまった。すかさず小さんは平手で頬を打ったが、虫は逃げ、再び頭上を旋回する。ピシャッという大きな音だけがむなしくホールにこだました。



 噺どころではない。客はゲラゲラ笑い、小さんも一瞬噺を中断して、「蠅じゃありませんね。大きい……。虻あぶかな?」と呟いている。噺の世界は壊れかかった。



 が、芸の虫は天然の虫に負けはしない。やおら『棒鱈』の酒席に世界を戻した小さんは、「どうもなあ、食い物があるてえと虫が出てきていけねえ」と絶妙のアドリブを振ったので、客席はどっと喝采をした。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。