落語 木戸をくぐれば

第4回「落語家と着物」
 落語家は着物の商売――、そんな言い方がいまの世の中では通りにくくなってきた。着物より和服のほうが一般用語になっている。



 文明開化のころ、髷まげはなくなったが、まだ日本人の着る物に大きな変化はなかった。着る物すなわち着物、みんなが着物を着ていた。落語家は日常生活のままの姿で芸を演じる商売だった。



 欧米の生活習慣が浸透して次第に「洋服」がスタンダードになる。「和服」はもちろん、「洋服」のあとに生まれたことばだろう。



 西洋料理、中華料理に対して日本料理、洋食に対して和食、中華そばに対して日本そば、と言い分ける必要が生じてくると、長い間独占的にスタンダードだった日本古来の事物が何やら特殊なものめいてくる。ことばという一種のシグナルが生む不思議な作用だ。



 蕎麦もふくめて「日本」料理はそれでもなお根強い地盤をもっているが、「和服」は特別な機会に少数派が身につけるものになった。洋服に対して和服はひどく劣勢な状況だから、古来の「着物」ということばの影が薄くなるのは、無理もない。



 それでも落語家は着物の稼業、落語は着物の芸だ。戦後の一時期、洋服姿で立って演じるのを試みた落語家があったが、二十一世紀落語の旗手と目される新作派のホープたちは、そんな無駄なあがきをしていない。



 戦後も高度成長期のころまでは、主な落語家のほとんどが着物姿で街を歩き、寄席の楽屋へ出入りしていた。着流しに羽織、しかし頭には帽子という明治スタイルで、桂文楽も古今亭志ん生も三遊亭圓生も柳家小さんも行動していた。やがて圓生や小さんは洋服で楽屋入りするのがふつうになる。後輩たちのスタイルに影響を受けたのだろう。街の中で芸人らしさをあえて主張する落語家は、もうひとにぎりほどになっていた。



 小さんよりさらに後輩だが十代目桂文治は最後まで着物で楽屋入りした大看板である。平成の新宿を歩く文治は目立った。着物姿は文治のトレードマークになっていた。黒紋付に袴が落語家の正装だと言ってもいた。その論の是非は別として、ステッキと小さなカバンを手に着物で都心を歩いていた桂文治の〝英姿〟が懐かしい。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。