落語 木戸をくぐれば

第3回「志ん生は不貞腐れた」
 戦後の復興期は落語の隆盛期でもあった。



戦災で焼失した寄席の再生ははかばかしく進まず、戦前にくらべて一段と軒数を減らしたものの、落語はうまく新時代のメディアにのった。



 一九五一(昭和二十六)年以降、全国で民間ラジオ放送局が続々と生まれ、五三年には早くもテレビの電波が流れるようになる。ポツダム宣言受託からわずか数年、灰燼に帰した東京の下町から、焼跡はほとんど姿を消していた。



 メディアはまだ若者文化一辺倒ではない。おとなの娯楽が幅をきかせていた。消費の鍵はおとなが握っていたから民間ラジオもおとな向けの性格になる。まだ聴取率万能でもなかったらしい。核家族化以前の家庭に一台のラジオ。家族みんなが楽しめ、一定の完成度があり、一人芸で制作が簡便、安価な落語は、たちまちラジオの寵児となったのだった。



 そうした需要にこたえるだけの豊富で多彩な人材が落語界にはあった。むろん芸の水準も高い。時間の枠という制約の下での口演とはいえ、全国の人々は居ながらにして落語巨匠時代の至芸を耳にすることが出来るようになった。これが、どれほど落語の普及を援けたかわからない。落語空間の拡大である。



 はなし家が田舎へ行ったら鉄砲を持って追い駆けられました、カモシカとまちがわれて・・・なんて小ばなしは昔語りである。落語界の今日は、多分にこの時代のお蔭をこうむっている。



 タレントとしての側面が大きかった林家三平は別にして、ラジオ落語の覇者は五代目古今亭志ん生と三代目三遊亭金馬である。二人とも数年にわたって、専属局一のゴールデンタイムに自分の名の付くレギュラー番組をもっていた。ニッポン放送の「志ん生十八番」、文化放送の「金馬独演会」はなつかしい。



 そんな志ん生全盛の五〇年代後半、上野の鈴本演芸場にはある時間帯、観光バスの客が入っていた。歌舞伎座の一幕だの、吉原の花魁道中だの、浅草寺だ隅田川だと〝お江戸〟スポットをめぐるコースで、寄席でも一時間たらず三演目ほどを楽しむ。興行なかばの出入りだから、そのドヤドヤぶりが個人客には、はなはだ迷惑だった。



 そのころの寄席はまだまだ安定した客足があったのにそんなタイアップをしたのは、めまぐるしく変わりはじめた世の中への危機感があったからだろうか。



 バスの客数十人が帰りはじめた。やれやれである。が、例によって騒がしい。バスガイドが鍛えた声でしきりに退場を促している。御苦労様だが、これがまたうるさい。第一、雰囲気がぶちこわしになってしまう。次の演者の出囃子が聴こえる。「のっと」あるいは「一丁入り」という曲。志ん生だ。前座が出て来てメクリを返す。「志ん生」の三字。



 出囃子の聴き分けはつかなくても字は読めるから、観光バス御一行からもジワが起きた。



 「何だよお、志ん生聴けないのか」



 大声で不満をぶちまけるおやじもある。委細かまわず引率に声をからすガイド。志ん生は一向に出て来ない。出囃子が延々とひかれている。不満たらたらのおやじは出入口の戸のところで粘り、ガイドと揉めている。せめて顔だけでも見たいらしい。



 観光料金にどんな割合で入場料が含まれているのかは知らないが、正規の木戸銭を払った身として、ひそかに小気味よい思いである。志ん生よ、一人残らず排除されるまで、出るな。



 その願いを満たしてくれた志ん生だったが、そんななりゆきがおもしろくなかったのか、十三分の高座のほとんどを、まるで聴きとれない呟き調子ですませてしまった。



 この夜、芸の神様はみんなを平等に不幸にした。

著者紹介


京須偕充(きょうす ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。
慶應義塾大学卒業。
ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。
少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。
おもな著書に『古典落語CDの名盤』(光文社新書)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語の聴き熟し』(弘文出版)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)、編書に『志ん朝の落語』(ちくま文庫)など。TBSテレビ「落語研究会」の解説のほか、「朝日名人会」などの落語会プロデュースも手掛けている。