ボブ・ディラン『コンプリート武道館』BOB DYLANTHE COMPLETE BUDOKAN 1978

「フィジカルの優位性をとことん追求したアナログだ」

『コンプリート武道館』アナログの音の凄さを武田昭彦が語る。

<略歴>武田昭彦:幅広い音楽知識をベースに、ロックを中心にその魅力を深く掘り下げる音楽ライター。『レコード・コレクターズ』、河出書房のムックなどでサウンド面に言及した記事を執筆している。LPはカッティング・エンジニア別に整理整頓しているという。

2023年11月15日、ボブ・ディラン1978年の初来日公演を収めた『コンプリート武道館』が4CDエディションおよび8LPエディションでリリースされた。78年2月28日・3月1日に収録されたコンサートの模様は、22曲を収め同年11月21日、『武道館』(『Bob Dylan At Budokan』)のタイトルで2枚組LPとして発売。それからほぼ45年の年月を経て、24チャンネル(以下ch)のオリジナル・マルチトラック・テープから新規リミックスが施され、2日間の演奏をアンコールを含めフル収録したのが、この度登場した『コンプリート武道館』にほかならない。

計10本のオリジナル・アナログマスターテープから新規リミックス(2日分では計20本)

計10本のオリジナル・アナログマスターテープから新規リミックス(2日分では計20本)

本作は日本のCBS・ソニーがボブ・ディラン側に武道館で開催する来日公演を収録したいと持ち掛け、承諾を得た結果、当時31歳だった鈴木智雄エンジニアがミックスを手掛けた作品として知られている。鈴木は72年シカゴ、73年ベック・ボガード&アピス、そして74年サンタナといった海外ロック・バンドのライヴ盤の録音とミックスに携わり、実績を重ねていた。海外ア ーティストからの評価が高かったことが、鈴木エンジニアの信頼につながっていたことは無視できない。テープ速度の関係から1本のテープには15分程度しか収録できなかったため、2台のアンペックス製テープ・レコーダーを交互に駆使し、1日のライヴ収録に計10本のマルチ・トラック・テープを使用。

オリジナル・ミキサーの鈴木智雄エンジニアがリミックスを担当

オリジナル・ミキサーの鈴木智雄エンジニアがリミックスを担当リミックスを担当した鈴木智雄氏

本作の制作に際して、アナログのマルチ・トラック・テープはいったんデジタル化され、リミックスが施されソニー乃木坂スタジオのアナログ・コンソールを経由し、DSD(11.2MHz)にトランスファーされた。マスタリング・エンジニア吉川昭仁 (Studio Dede)によって、すべての音に焦点が当てられた見晴らしのいい音に仕上げられている。鈴木エンジニアは吉川のマス タリングに対して全幅の信頼を寄せており、2017年に復刻されたサンタナ『ロータスの伝説』でも吉川に音調整を委ねていた。『コンプリート武道館』はDSD領域でマスタリング作業が実施された後、4CDエディションのマスターが完成した。

MIXER'S LAB 北村勝敏エンジニアによるLPカッティング

MIXER'S LAB 北村勝敏エンジニアによるLPカッティングLP『コンプリート武道館』収録「ライク・ア・ローリング・ストーン」の音溝写真。

吉川エンジニアによるデジタル・マスターをベースにLPカッティングを担当したのが、カッティング・エンジニア北村勝敏(MIXER'S LAB)。北村はLPの全盛時代からカッティングを手掛けていた経験があり、ミキサーズラボが2018年にカッティングレースを導入した当初から、ワーナー系作品のみならず他社のLP製作に携わってきた。北村エンジニア は本作に先駆けて、2023年3月ソニーミュージックから発表されたブルース・スプリングスティーン『グレイテスト・ヒッツ』(SIJP1081)のLPカッティングも担当していた。

日本プレスによる8LPエディション

日本プレスによる8LPエディションソニーDADCジャパン静岡工場

LPのプレスはソニーDADCジャパン静岡工場で行なわれている。ここ数年、ソニー・プレスのディスクは徐々に完成度が高まっており、現在はソニー系列の作品限定でプレスが実施されている。実際、LPで追体験する『コンプリート武道館』は驚かされるほど静寂感が高く、ノイズ感はほとんど感じさせない。

LP1のA面冒頭「はげしい雨が降る」のインストゥルメンタル・ヴァージョンはイアン・ウォレスによるドラム、ロブ・ストーナーによるベース、ボビー・ホールによるパーカッションなどが穏やかに耳へと届けられる。右chから聞こえてくるスティーヴ・ダグラスによるサックスの音色は伸びやかで、心が洗われるようだ。続く「リポゼッション・ブルース」はセンターからボブ・ディランの鮮やかな歌声が聞こえ、ここでも右chからサックスが響いてくる。ディランの声、各楽器の音は45年という年月の経過をまるで感じさせないほど、フレッシュな音で伝わってくる。「ミスター・タンブリン・マン」ではフルートが右chに振られ、同じく右chから女声コーラスも聞こえてくる。リズム隊が曲のベースを支えていることが分かるサウンド・バランスは、極めて安定度が高い。「アイ・スリュー・イット・オール・アウェイ」は隙間の多い演奏ながら、カントリー/フォークに根ざした音楽性が滲み出ている。この曲におけるディランの甘い歌声、サックスの音色、女声コーラスの肌合いはLPでこそ味わえるのではあるまいかと強く感じる。

B面「風からの隠れ場所」はシンプルなフレーズが繰り返される曲だからこそ、バンド・サウンドの持ち味が如実に伝わってくる。ディランの吹くハーモニカの音色が印象的な「ラヴ・マイナス・ゼロ」はパーカッションに加え、アコースティック楽器の音色が曲に彩りを与えている。「北国の少女」はディランの歌声を中心に漂うようなオルガン、サックスの音色が曲を飾り、ギターと絡み合う。音数が少ないぶん、目の前に迫ってくるディランの声に耳を奪われる。求心力の高まった演奏は「やせっぽちのバラッド」へと続き、ディランの見事な歌いっぷりに引き込まれてしまう。ここでもサックス、女声コーラス、オルガン、パーカッションなどが目眩くような演奏を披露し、バンド・サウンドと溶け込んでいる。高揚感に溢れるここでの演奏はおのずと聞き手の心を揺さぶるに違いない。

LP2のA面「マギーズ・ファーム」はロック・テイストが全開になり、バンド・サウンドに加え、サックスの音色も厚味がいっそう増している。何より特筆されるのは、ビリー・クロスの奏でるリード・ギターのアグレッシヴな演奏だろう。打って変わり「ラモーナに」はリズムとリズムの間に隙間を感じさせる曲ながら、参加メンバーによる一体感溢れる演奏が存分に楽しめる。ディランの歌声に寄り添った女声コーラスの活躍ぶりにも耳を奪われる。「ライク・ア・ローリング・ストーン」はディランのひときわ力強い歌声が印象的で、オルガン、サックス、女声コーラスなどが曲に図り知れない力をプラス。終盤、センターから聞こえてくるギター・ソロ、サックスの響きにも耳を奪われる。

B面「アイ・シャル・ビー・リリースト」はミドル・テンポのバッキングが印象的で、溌溂としたディランの歌声が魅力的に響いてくる。サビ・パートで聞こえてくるサックスの音色が、LPでは濃厚そのもので味わいを醸し出している。新曲「イズ・ユア・ラヴ・イン・ヴェイン」はハーモニカの音色に導かれるラヴ・ソング。力強いドラム、コーラス、サックスの音色に加え、間奏におけるオルガンの響きがほかにはない魅力を感じさせる。「ゴーイング・ゴーイング・ゴーン」はゴスペル調の女声コーラス、サックス、粘りのあるギターの響き、変幻自在のパーカッションに導かれコンサートの前半が終了する。

LP3のA面「スーナー・オア・レイター」は、リズム隊を筆頭にサックスの音色と女声コーラスがディランの声を牽引していく印象を抱かせる。ここでのディランの歌声は力強く、LPでは厚味を伴って響いてくるのが堪らない。観衆の拍手に導かれ始まる「風に吹かれて」は一語一句をていねいに歌い上げるディランが印象的。女声コーラス、ギターの響きがとりわけ迫り出してくるように感じられ、引き込まれてしまう。「女の如く」は緩急の付いた曲で、ディランがひときわニュアンス豊かに歌っているのに惹かれる。甘い女声コーラス、終盤の物語性を滲ませるハーモニカも曲に彩りを与えている。「オー、シスター」は咽び泣くようなサックスの音色、パーカッション、女声コーラスに導かれソウルフルな世界が提示される。ブルース感覚に溢れるギターが分厚いバッキングと絡み合い、独特の音像が生み出されているのは魅力的というしかない。

B面「運命のひとひねり」はゆったりとしたバッキングにヴァイオリン、サックスなどが絡み付き、新鮮な音像が立ち現れる。ディランのていねいに歌い上げる様子も伝わってくる。間奏におけるドラム捌き、ギター・ソロなどがLPでは鮮やかに再現され爽快そのもの。「きみは大きな存在」はブルージーな曲で、何よりドラムの張りのある音がひときわ鮮烈である。LPでは各楽器がいい味を醸し出している様子が直に享受できるだろう。「見張塔からずっと」はバンド・サウンドに加え、ギター、フルート、女声コーラスが溶け合った力強い演奏を聞かせる。とりわけヴァイオリンの音色がLPでは陰影感を伴って響いてくる。ヴォルテージの高い歓声に続いて登場する「アイ・ウォント・ユー」は音数が少ないなか、ディランの声を支える格好でフルート、オルガンが曲に彩りを生み出している。

LP4のA面「オール・アイ・リアリー・ウォント」は手拍子に導かれて始まり、終始テンポよく曲が進んでいく。サックス、女声コーラス、威勢のいいディランの声が曲を牽引していく。「明日は遠く」のバラードは女声コーラス、サックスを従えながら、ディランがていねいに歌い上げている様子が分かる。「くよくよするなよ」はここではレゲエ・タッチのアレンジで披露され、ドラム、フルート、パーカッションなどの楽器の音色がひときわ際立って響いてくる。

B面「イッツ・オールライト・マ」は激しいギターの音色、テンションの高い女声コーラス、情熱的なサックス、ヴァイオリンなどがバンド・サウンドを終始引き立てている。抑揚感のあるディランの歌いっぷりがLPでは直に感じられ、耳を刺激してくれる。「いつまでも若く」はディランが誠実に歌い上げるバラード。ここではオルガン、サックス、フィドル、女声コーラスなどが曲を大いに引き立てている様子が聴取できる。左右目一杯に広がる音像は、音楽に秘められた並々ならぬパワーを感じさせてくれる。そして、アンコールに応えて披露された終盤の「時代は変る」はケルティックな面を前面に打ち出しながら、この曲が内包しているメッセージ性を強く印象付けている。

CDでは得難いLP体験・魅力

3月1日の公演はLP5〜LP8に収められているが、2月28日の公演とは披露された曲が若干異なっている。LP5のA面「ラヴ・ハー・ウィズ・ア・フィーリング」はディランの力強い歌声、サックス、女声コーラスが厚味のある音で迫ってくる。LP6のA面「コーヒーもう一杯」はパーカッションの響きがラテン風情を醸し出し、ピアノ、サックスと溶け合うことで独自の世界が繰り出される。LP7のB面「アイ・ドント・ビリーヴ・ユウ」はサックス、マンドリンが小刻みに絡み合いながら、独特のリズムを創出。LP8のA面「天国への扉」はリコーダー、オルガン、女声コーラスがレゲエ・タッチのアレンジを引き立てているのが分かるだろう。続く「ザ・マン・イン・ミー」はゆったりとしたリズムのなか、ディランの歌声に寄り添った女声コーラスが魅力的である。サックス、マンドリンもこの味わい深いこの曲の雰囲気を盛り立てている。LPは総じて楽器の倍音を厚味のある音で色彩感豊かに表現する傾向があるので、聞き手が曲のイメージを感じ取りやすい優位性がある。LPはフォノカートリッジの選択によって好みの音が得られるのも特徴だが、8LPエディションの仕上がりは極上なので気分に合わせて適宜カートリッジを付け替えて楽しみたくなる。

2枚組LPの『アナザー武道館』はオリジナル『武道館』に収録されなかった未発表テイク11曲、代表曲の未発表ヴァージョン5曲の計16曲を収録。LP1に2月28日、LP2に3月1日の音源をそれぞれ収めている。なお、後者の未発表ヴァージョンの5曲はオリジナル『武道館』に収録された日の別日の演奏となる。本作も先の8LPエディション同様、北村勝敏エンジニアがLPカッティングを手掛けており、ライヴ盤ならではの躍動感、空気感に溢れる演奏がたっぷりと体感できる。

本作に同梱される詳細な資料やライナーノーツは当時の制作スタッフの証言を筆頭に読み応え充分で、コンサートのパンフレットやチケットを丸ごと復刻するなど、ボブ・ディランの初来日公演を振り返る情報が満載されている。フィジカルとしての優位性をここまで追求した制作スタッフ陣の熱意に感服させられる。